フランス(ヨーロッパ)の歴史

南西地方(スッド・ウエスト、シュッド・ウエスト)の歴史

南西地方

南西地方(スッド・ウエスト、シュッド・ウエスト)の歴史

南西地方と言っても広いですが、現在、南西地方で最も大きな都市であるトゥールーズ周辺、ガスコーニュ、バスク辺りの歴史を簡単に紹介します。ガスコーニュは現在のボルドーなども含むエリアのため、ボルドーの歴史とも重なる部分があります。

現在のトゥールーズは、紀元前3c半ばにはガリア系の民族によって征服され、その後ケルト系の民族に支配者は移っていました。

ローマとも同盟関係にありましたが、紀元前107年にローマに占領され、属州ガリア・ナルボネンシスの重要な軍事都市として発展します。

当時、トゥールーズはトロサと呼ばれていました。

紀元前75年には、ローマのポンペイウスが自身の名前を付けた都市ポンパエロを建設します。ここが後にパンプローナ王国となり、ナバーラ王国へと繋がっていきます。

ガロンヌ川とピレネー山脈の間あたりの地域はアクイタニ族というバスク系の民族が住んでいましたが、紀元前1cにローマの侵攻を受け、アクイタニアと呼ばれるようになります。北側にはケルト系の民族が居住していましたが、合わせて属州のガリア・アクイタニアが誕生します(アクイタニアはアキテーヌの語源)

バスク人は部族ごとに分かれて広い領域に点在していました。アクイタニアはローマの属州ではありましたが、ピレネー山脈南部の山岳地帯に住むバスク人を含めて、ローマの支配は限定的で、独自の文化を形成していました(バスクにも3cにキリスト教が伝わりますが、ケルトの影響を受けた自然崇拝が主流だった)

ローマが帝政になり、初代皇帝のアウグストゥスの時代(1c)に、現在のトゥールーズ歴史地区に都市が作られました。トゥールーズの名前が初めて記されたのは250年のことです。

413年に西ゴート王国が建国されますが、トロサは西ゴート王国の首都となります。

ガリア・アクイタニアは、3c末の属州の再分割で3つに分かれますが、こちらも西ゴート王国領となります。西ゴート王国は、507年にはフランク王国との争いに敗れ、西ゴート族はイベリア半島に撤退していきます。

アクイタニアには、現在のスペインのナバーラ州あたりから、ヴァスコン人が移住してきて、ヴァスコニアと呼ばれるようになります(バスクやガスコーニュの語源)

フランク王国は、ヴァスコニア辺境伯を設置しますが、660年にはヴァスコニア辺境伯は半独立のような形となります(フェリックス・ダキテーヌが隣のアキテーヌ辺境伯も兼任)

トロサもフランク王国の一部ではありましたが、7cには半独立のような形となり領土も拡大します。ガリアに進行したイスラム勢力のウマイヤ朝は、セプティマニア(現在のラングドックとルーション)を占領し、今度はヴァスコニアに向けて侵攻し、721年にトゥールーズを包囲します。このトゥールーズの戦いでトゥールーズは敗れますが、ヴァスコニアとアキテーヌを支配するウードはイスラム勢力に勝利します。

ですが、その後再びヴァスコニアへの侵攻が始まります。ウードはボルドーを奪われ、さらにウマイヤ朝はトゥールを制圧しそうな勢いで進軍します。

ウードは敵対関係にあったフランク王国の宮宰カール・マルテル(シャルル・マルテル)に助けを求め、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いが起こります。この戦いはカール・マルテル率いるフランク王国側が勝利し、イスラムのガリア侵攻は勢いを失います(セプティマニアは依然としてウマイヤ朝の領土として残り、カール・マルテルの息子でカロリング朝を開きフランク王となったピピン3世が8cに取り戻します)

トゥールーズ伯領はトゥールーズの戦い以降は、北部への領土拡大を諦めますが、フランス南部においては依然として存在感を示し、独立状態を維持します。

南部のスペイン側のバスクは、いくつかの小国が分立し、718年に誕生したアストゥリアス王国(レオン王国)や、824年に誕生したパンプローナ王国(ナバーラ王国)が力を持ち始めます。これらの国が後にスペインのレコンキスタ(再征服運動)を進めていくこととなります。

現在のフランス領バスクの3つの地域、東部のスール、中央部のバス=ナヴァール、西部のラブールは、ヴァスコニアの一部でしたが、ヴァスコニアがガスコーニュ公国となり、後にバス・ナヴァールやラブールはナバーラ王国の領土となります。スールはナバーラ王国の影響を受けつつ11cまで半独立していました。

1191年にナバーラ王国とアキテーヌ公国(プランタジネット朝のイングランド)との間で分けられ、バス=ナヴァールはナバーラ王国領、ラブールはアキテーヌ公領となります。1261年にスールもアキテーヌ公領となります。

ラブールは、バイヨンヌが首都でしたが、1215年に分離し、自治都市となっています。

一方10c頃から南フランスではカタリ派を信仰する者が増えていました。

12cにはカトリックにとって異端であったカタリ派を討伐するため、アルビジョワ十字軍が結成されます。このアルビジョワ十字軍によって、カタリ派は消滅し、独自の発展を遂げていた南フランスはフランス王の完全な支配下となり、トゥールーズ伯領も1271年にフランス王領に併合されます。

フランスの王位継承権を巡って、フランスとイングランドの間で百年戦争が起こりますが、百年戦争後にラブールとスールはフランス領となります。

バス=ナヴァールはスペイン王国がナバーラ王国の大半を占領した16c以降(バス・ナヴァールの名称はこの頃から使われだした)、フランス王国の支配下に入りますが、独立国家であり続け、ナバーラ王国の名称はフランス革命まで残ることとなります。17cにナバーラ王エンリケ3世がフランス王アンリ4世として即位したことで、1620年にフランス王国に正式に編入されます。

1659年のフランス・スペイン戦争後のピレネー条約で、バスク地方は北(フランス側)と南(スペイン側)に完全に分かれることとなります。