フランス(ヨーロッパ)の歴史

中世の食事、料理

中世 台所

中世は1000年ほどもあり、その中で食生活も大きく変わっていきましたし、地域によってももちろん違いはありますが、ざっくりとした基本的な中世の食事事情を紹介していきます。

ローマ帝国の衰退に伴う混乱により、中世のゲルマン民族国家の食を含む文化は、ローマ帝国から引き継いだものもありますが、失われた部分も多く、他地域との交流も少なくなり独自の文化を作り出していきます。

物流などもうまくいかなくなり、食事内容はローマ帝国が繁栄した時代より悪くなりました。

中世の食事は昼と夜の2回が基本でした。昼の食事がディナーで、軽い夕食がサパーです(ディナーは18cころに夕食になる)

教会は大食を戒める意味で食事を2回とし、少食がよしと考えられていましたが、農民などの肉体労働者は朝食も食べていました(15c頃から3食が一般的になる)

庶民の主食は穀物で、小麦、ライ麦、大麦、スペルト小麦、キビ、モロコシなど、その地方で取れる穀物をグリュエルやポリッジといった粥にして食べていました(小麦は比較的高価)

パンも食べますが、領主のパン釜を借りてパンを焼かなければならず、使用量も高いことから貧しいものは粥を食べることが多かったようです。

パンを焼く場合も、頻繁には焼くことができないので、一度にたくさん焼いて古いパンを食べていました(長持ちするように硬く焼く。古くなるとさらに硬くなる)。パンはスープに浸したり、浮き身にして食べました(ローマ帝国の時代と同じですね)

農民は蕪、大根、ほうれん草、キャベツなどを栽培して食べていました(スープにしたりポリッジなどに入れていた)

富裕層は野菜をあまり食べませんでした(イタリアの方では食べていた)

スープなどの温かい料理は1つの器に入れて家族で回し飲みが基本でした。

15〜16cくらいまでスプーンもありませんでした。

肉はあまり食べられませんでしたが、庶民も豚を飼うことはできました。豚で塩漬けや、ソーセージといった保存食を作り、安息日などに食べました。

豚は都市部でも放し飼いで飼われていました(何度も豚の放し飼いは禁止されたが効果がなかった)

牛は労役や乳用が中心で、食用として一般的になるのは近世になってからです。

領主は森を保護し、狩猟が出来るのは貴族の特権でした(農民も自分達の畑を荒らす鳥獣駆除は認められていた)

中世の貴族は森での狩りを戦闘の訓練のような位置付けにしていました(レジャーの側面もあるが)

貴族たちは兎、猪、鹿などを狩って食べていました(今でもヨーロッパはジビエ(狩猟肉)の格が高い)

中世初期は富裕層でもシンプルな料理を食べていて(肉の炙り焼きなど)、重視されたのは量でした(領主は下のものの数倍もの量の料理が出た)

中世の時代のキリスト教には四旬節などの断食日が年に100日近くありました。断食日といっても1日に一度は食事が取れましたが、肉類を食べることは禁止されていました(獣類、鶏肉、乳製品、卵などが禁止)

その時期には主に魚を食べましたが、ビーバーは獣と魚の中間の生き物とされ、北欧などで食べていましたし、黒ガンも姿形が果実や貝に似ていることから食べても大丈夫などといった、いくつかの抜け道はありました。

断食はルネサンス後の宗教改革で緩くなりなくなっていきます。

一時期川魚は激減したこともあり、海の魚、その中でも大量にとれたニシン、タラが重宝されました。これらの魚は漁期が短く腐りやすいので、元々は海の近くの人しか食べられませんでしたが、ニシンの塩漬けや燻製(昔あった方法の再発見)、干しタラなどが作られるようになり、内陸の地域にも運ばれて消費されました。

中世のヨーロッパを支配していたゲルマン人たちは元々はビールを好んでいましたが、キリスト教の普及にあわせてワインが広まっていきます。

ワインは、ミサなどに必要なこともあり、修道院で造るようになります(北部ではビールを造る)

ヨーロッパの生水は体に悪く、ワインは飲み水がわりとして飲まれました(ビールも同じ)

子供には水で割って薄くしたワインが与えられました(ワインのアルコールで殺菌)

ワインの搾りかすに水を加えて発酵させた低アルコールのピケットというものもありました。

基本的によほど貧しいものではない限り、皆がワイン(またはそこから派生した飲み物)を飲むことができました。

当時のワインは醸造技術が未熟で、保存が出来ないものだったので、1年経ったら翌年のワインに混ぜたり、スパイスやハーブを加えて飲みました。

11〜13cの十字軍は西洋の食にとって大きな転換点です。ビザンティンやイスラムの文化に触れ、スパイスや砂糖などが入ってきました。

砂糖が普及したのは14cで、それ以前は薬局などで扱われていて薬の位置付けでした(薬剤師がアーモンドと砂糖からドラジェなどを作っていた)

普及してからはスパイスとして扱われました。15cに新しい貿易ルートなどが出来て供給が安定します(後述する14cに書かれた料理書のルヴィアンデェエなどのルセットは、料理に砂糖をたっぷり使っている)

ショウガ(乾燥させたもの)やシナモンといったスパイスは9c頃には紹介されていましたが、スパイスの使用量が極端に増えたのは十字軍以降です。

富裕層は料理にスパイスを大量に使うようになります。高価なスパイスを大量に使うことが富の象徴となり、今では考えられない量のスパイスが料理に使われました。

そしてヒポクラテスの流れを組むアラブの医学書も同時期に西洋に入ってきて(戻ってきたというべきか)、ガレノスの功績などもあり、四体液説として支持されていきます。

四体液説は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁を基本体液と考える体液病理説です。この4種の体液の調和によって身体と精神の健康が保たれ、バランスが崩れると病気になるという考えです。

中世から近代のヨーロッパで広く行われていたギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)の根幹の考えなのですが、19世紀の病理解剖学が誕生し、四体液説は科学的根拠がないと否定され、医学の主流から消えていきます。

ただ、個人的にはこの考えがまったく見当違いだとは思っておらず(数百年支持されたのには理由がある)、この4つの体液の分類で正しいのかはともかく、意味のある考え方だと思っています(アーユルヴェーダなどにも通じる考えですし、ワインで広く行われているビオディナミ農法を考え出したルドルフシュタイナーも似たような主張をしている。別の記事でいつか深掘り予定)

当時は食材もこれら4つの性質と対応する、熱、冷、湿、乾、の4つの属性に分けられ、属性を考慮して食材を組み合わせて料理を作っていました(スパイスもこの属性の組み合わせて理想的な料理にするのに貢献した)。食材には順位というか格付けみたいなものもありました。

古代ローマのアピキウス以降、料理に関する文献は、キリスト教の締め付けなどもあり(食欲は原罪の源)、途絶えていましたが、14cになって再び書かれはじめます。

14cに書かれたLiber de Coquingは中世の料理書として最初期のものです(著者不明。フランス人またはナポリ出身のイタリア人が書いたとされる)。Liber de Coquingは「ワインは飲み物の中で最も美味で価値がある。だから他のどんなものより尊重すべきだ」という文章から始まります。キリスト教と一緒に発展してきた中世の文化にとってワインが特別なものだということが伝わってきます。

有名なフランスのタイユヴァン(ギヨーム・ティレル)も同時期です。タイユヴァンは、ル・ヴィアンディエという料理書で知られています(現在は正確な著者はわからないとされる)

タイユヴァンはシャルル5世によって国王付き料理長であるエキュイユドキュイジーヌに任命、シャルル6世にも仕えた人物です。

ヴィアンディエはヴィアンドから派生した言葉ですが、17c以前はヴィアンドは現在のように肉の意味ではなく、食べ物全般を指す言葉でした。

ル・ヴィアンディエなどに掲載されている調理法やルセットを見ると、現代とはずいぶん違った料理を食べていたことがわかります。

肉は茹でてから焼くのがこの時代の調理の基本でした(ローマ時代もやっていましたが)。これらの料理書にはロティ(ロースト)がよく登場するが、現代のようにオーブン焼きではなく串に刺して直火で焼いていました。背脂を刺して焼くのも共通する特徴です。

最初にブランシール(茹でる)するのは、ロティする時に肉が乾きすぎるのを防ぐためです。

この時代は冷蔵庫などはないので、肉は地下室や調理場に吊るしていました。肉は種類にもよるが、柔らかくするために数日熟成させていました(当時は新鮮なうちにすぐ食べたという話もある)

3〜6度が熟成の適温ですが、中世の環境だと細菌が繁殖してしまうため、ブランシールには、肉の表面の細菌の繁殖が起こす異臭を取り除く意味もありました。

淡水魚は水煮にし、麦の若葉から作るソースヴェルトで食べたようです。

ウナギはサラジネという煮込みが紹介されています。ワインやヴェルジェ、シナモンなどのスパイス、ヴィネガーなどが入った煮込みです。

また、紹介されているルセットには、ブランマンジェがありますが、当時のブランマンジェはお菓子ではなく、鶏肉などのゼリー寄せでした。

ル・ヴィアンディエで紹介されている香辛料リストを見ると、さまざまなスパイスを使っていたことがわかります。生姜、シナモン、クローブ、グレーヌドパラディ、ポワーヴルロン、マスティック、クミン、ラヴェンダー、胡椒、シナモンの花、サフラン、ナツメグ、ローリエ、ガランガル、砂糖、アーモンドといったスパイスが料理に使われていました。

使っているもの自体はそこまで現代と変化していないようにも思いますが、量は全然違いました。

あまり現代では使わないもので言うと、グレーヌドパラディはマニゲットのこと。ポワーヴルロンはヒハツ。マスティックはギリシャのヒオス島(キオス島)にのみに生育しているマスティックの木の樹液です。これらは現代でも購入可能です(ヒハツはスーパーにも売っていますね)

ソースの種類はまだ少なく、火を通さないソースカムリーヌ、ミルクやヴェルジェを加えて火を通して作るソースジャンスが基本でした。

鳥用のソースとしてドディーヌというのもありました。ドディーヌというと、エスコフィエのルーアン鴨のドディーヌという詰め物をしたクラシックな料理が知られていますが、中世のドディーヌはまったく別物です(鴨などの鳥を使った料理というのは共通)

ドディーヌにはミルクを使ったものや、赤ワインを使用したもの、ヴェルジェを使うものなど色んなタイプがありますが、ロティした時に落ちてくる肉汁とこれらの材料を合わせて作るソースです。

中世で煮込みやソースにとろみをつけるために使われたのはパンです。脂肪分は基本使わなかったようですし、当時はルーもまだありませんでした。

マスタードは当時から残るソースの一つでもあります。

ルセットにはミルク(lait)がよく出てきますが、牛乳のことだけを指しているわけではなく、羊、山羊、アーモンドミルクの場合もあります。

塩味と甘味が共存しているのが中世の料理の特徴で、現在の調理で塩を使うような感じで砂糖を使っていました(タイユヴァンは特に砂糖多め)

現代のフレンチは料理に砂糖は使いませんし、ソースやスパイスのことも含め、まだフランス料理と呼べるものが誕生していないのがわかります。

料理のルセットは、現代のように厳格ではなく、どれを入れても良い場合が多くあり、追加のリストが書かれていたりするのも面白い点です。

ル・ヴィアンディエなどにも描かれていますが、16c中頃まで料理は一品ごとではなく大皿にまとめて盛られて提供されていました。これをmets(メ)と言います(ソースは別添え)。一つの大きな深皿に、肉も魚も野菜も一緒に盛られていました。

一つのメが終わると、次のメが出てくるのですが、その間に出されたのがアントルメ。メとメの間、という意味です。

14c頃に生まれたアントルメは、初期の頃は上座にいるものだけに出される特別料理の意味していました(料理の合間の軽いメニュー)

程なくして、アントルメは余興、見せ物みたいなものに変わっていきます。孔雀や鶴の丸焼き(ルヴェチェ)であったり、場合によってはほとんど食べられないものも登場しました。城のミニチュア、ワインが噴き出す噴水など。凝った仕掛けのある大掛かりなものが考え出されました。

こうした孔雀のルヴェチェなどが出されるのは貴族の屋敷の宴だけの話ですが、食べる料理自体は貴族も、そうではない富裕層も変わりませんでした。

こういったスパイスや砂糖をたっぷりと使った中世の料理ですが、ルネサンスを経て少しづつ変化して、現代の料理に繋がる流れが生まれてきます。