フランス料理

古代ギリシアと古代ローマの食事

古代ギリシアと古代ローマの食事

美食の国として有名なフランスですが、フランスの食の話をする前に古代ギリシアや古代ローマ時代の食文化のことにも軽く触れてみたいと思います。

古代ギリシアや古代ローマの文化は中世で一度断絶してしまうとは言え、現代の食に通じる部分もあり(違った部分も当然あり)、とても興味深いものです。

古代ギリシアの食

古代ギリシアの初期の頃はぶどうやナツメヤシ、イチジクなどのフルーツやナッツ類を食べて暮らしていました。果物を主食として考えると水分が多すぎて不都合が出てくるので、基本的に乾燥させて食べていました。

ギリシアは土地が痩せていて、ぶどうやオリーブの栽培には向いていましたが、穀物の栽培が難しい土地でした。紀元前1000年頃になると、他地域との交易が発達し、麦などの穀物が安定的に手に入るようになりました。

麦は粥にして食べられるようになり、古代ギリシアの主食となっていきます。一般の人々の主食はマーザと呼ばれる大麦粉の粥を固めたもので、オリーブの実やイチジクなどや魚と一緒に食べました。

その後、古代メソポタミアで始まったパン作りが古代ギリシアに伝わり発展し、より洗練されたものとなっていきます。パンは色々な穀物を使用し、香りなどもつけて多様な種類が作られていました。

肉は元々はあまり食べていませんでした。放牧地が少なかったこともありますし、家畜の牛や羊は労働力だったり、毛を利用する用途に使われていました。肉を食べるのは儀式で生贄にされた動物を食べる時くらいでした。ですが、交易の発達により、様々な肉が食べられるようになります。豚肉や羊、山羊、牛などが食べられていました。血入りのソーセージもありました。肉は一度茹でてから焼いて、塩を振って食べました。

野菜類はニンニク、玉ねぎ、クレソン、蕪などがあり、スープなどに調理され食べられていました(スパルタでは動物の血や野菜のスープが飲まれていた)果物はぶどう、メロン、林檎、ザクロなどがありました。

他にチーズも食べられていました。ハチミツも重要な食材で、甘みを付ける目的で使用される他、肉などの保存のためにも使われていました。

飲み物はキュケオンという大麦粉とミントを合わせたものがあり、農民を中心に飲まれていました。大麦を煎じたものはプティサネーと呼ばれていました。この2つは混同されていたようですが、どちらもワインと混ぜて飲まれることもありました。飲み物と書きましたが、結構ドロドロした飲み物と食べ物の中間的な物もあったようです。

古代ギリシア人の食事は、1日3回で(前5c頃から)、一部の富裕層を除き、とても質素なものでした。朝食はアクラティスモスといい、ワインにパンを浸して食べるというものでした。当時のワインはどろどろしたもので、飲む場合は水などで割るのが一般的でした。昼食のアリストンも軽めで、夕食のデイプノンが重視されていて量もしっかりとありました。

食事は指で掴み食べました。ナイフやフォークはまだありませんでしたが、スープなどで使うスプーンはありました。一部では固いパンで作った匙パンを用いることもありました。食事で汚れた手はアミロンという小麦粉を練った者で拭き取り、アミロンはそのまま床に捨てられ動物の餌となっていました。

古代ギリシアの人々は大勢で食事をする習慣があり、富裕層は頻繁に宴を開いていたのも特徴です。お客さんを招き、入浴してから宴は始まります。クリネーと呼ばれる臥台に横たわって食事をしました(小アジア=アナトリアから伝わった)

こういった宴は男性のみが参加でき、シンポシオンと呼ばれていました(シンポジウムの語源)

宴は二部に分かれていたのも特徴です。現代の食事は料理とお酒とのマリアージュを楽しむ側面が強いですが、当時は最初に食事を食べ、その後ワインが主体の宴に移行しました。こちらはワインを飲みながら議論などをする場でもありました。酒宴に入る際には一定の儀式が行われました。

酒宴は初期の頃は違いましたが、後に娯楽要素が強くなり、騒いで楽しむ場となっていきます。

古代ローマの食

古代ローマの食を含めた文化は、滅ぼした古代ギリシアや現在のトスカーナ周辺にあったエトルリアの影響が強く出ています。もともと質素な食事をしていたローマ人ですが、古代ローマの勢力拡大に合わせて、周辺の地域の食材も入ってくるようになり食事は豪華になり、食文化も急速に発展していきました。

古代ローマ初期の食事は古代ギリシア同様三回で(ローマの歴史は長いので変化はありますが)、朝食はイエンタクルム、昼食はケーナ、夕食はウェスベルナと呼ばれていました。昼食のケーナが、一番しっかりとした食事でした。

ケーナは夕食に変化していき、ウェスベルナは夕食後の軽食みたいな感じになっていきました。昼食はブランディウムと呼ばれるようになります。

朝食のイエンタクルムではパンや果物、チーズなどを食べました(朝食は軽く食べるのが決まり)パンは日持ちのする固いパンでしたが、無料で配布されていた時代もあるほどで、古代ギリシア同様、ワインに浸すなどして食べました。

また庶民は貴族(パトローヌス)の保護の対象になっている場合が多々あり、挨拶に行くとスポルトゥラというカゴに入った食事をもらう事も出来ました。

スポルトゥラは食べてももちろん良いですが、売ったり交換したりも認められていました。これは古代ローマならではの習慣です。

昼食のブランディウムも朝食と同じような簡単なものを食べていました(粥やソーセージ、前日の残り物などを食べた)

ローマでは、富裕層は一軒家のドムスに住んでいましたが、多くの一般人は集合住宅のインスラに住んでいました。狭い地域に人口が密集していましたので、インスラは無理やり造られた高層集合住宅といったイメージで、決して住み心地が良いものではありませんでした。

ドムスには調理場があり、料理をする奴隷を抱えることもできました。インスラは基本的に下の階ほど良い環境で、上層階には料理ができる調理場などなく、火を使うことは原則禁止でしたし、卓上の小さな炉で温める程度しか出来ませんでした(水道も通っていない)

そのため、まともな料理を作るのは困難で、バールやタベルナといった食堂に行って外食することも多くありました。富裕層はケーナーティオーと呼ばれる高級料理店で食事をすることも出来ました(後述するケーナの晩餐のようなスタイル)

古代ローマの上流階級や富裕層たちは、ローマ市民をケーナに招いて晩餐を開く事もありました(ローマと言えば公衆浴場ですが、そこで市民を誘ったりする)かなり大規模な宴会が開かれることもありました(カエサルが開いた会はほぼ全てのローマ市民が食事を出来る規模だった)

富裕層のケーナは古代ギリシアやエトルリア同様、トリクリニウムと呼ばれる寝椅子に寝ながら食事をしました。テーブルを囲むようにコの字に3台トリクリニウムは置かれ、一台に3人ほどが寝ながら食事をしました。また正装するのも決まりで、座る位置も序列により決まっていました。

ケーナはコース仕立てで料理が出ます。最初に手を洗い、次に神の像にお祈りをしました。

その後、食前酒を回し飲みし(ワインやハーブ入りワイン、蜂蜜酒=アクア・ムルサ)、囲炉裏で加熱した卵が最初に出てきました(ゆで卵のようなもの。ニワトリが基本だが他もある)

この卵はガルム(魚醤)をつけて食べました。

前菜が二品出て(一品目は野菜や魚介のマリネなど。二品目はヤマネが良く出た)、その後主菜に移ります。主菜の一品目は魚のシンプルな料理、主菜の二品目は肉料理で、豚や仔羊、ガチョウなどが食べられていました(もともと牛肉を食べることは禁止されていましたが、後に認められた)

素手で食事をするので、食事の後再び手を洗い、デザートを食べます。基本的にフルーツで、リンゴやザクロ、ナツメヤシなどが出ました。

ローマ人は満腹になったら吐いてまた食べるとよく言われていますが、確かにそうする事もあったようですが、常にそうするわけではなく、そういう場合もあったというのが実情のようです。

料理はコース仕立てですが、一人一皿の現代的なコースではなく大皿で料理が提供され、各自で取り分けて食べました(今もそういうお店多くありますが)

取り皿は素焼きの簡易的なものでほぼ使い捨てのような感じでした(1~2回使って捨てる)平焼きのパンをお皿代わりに使う場合もありました。

古代ローマでも基本的に手で料理を食べていましたが、様々な料理が作られるようになったため、特定の料理用の器具が考案され使われていました(貝を殻から取り出す道具など)

食事の際に落ちた食べ物は不浄とされていて、拾うことも禁止されていました(死霊の祟りにあうとされる)食事をする場所の床にはアッサタロスと呼ばれる動物の骨や、果物の種などが描かれたモザイク画が描かれていて、死霊の魂を沈める効果があるとされていました(基本的に掃除をすることもよくないこととされていた)

ケーナの後には古代ギリシアから伝わった酒宴であるコミッサーティオが開かれました。ワインを飲むための杯は陶製や鉛製のものが一般的でした。金や銀の杯もありました。

古代ローマの酒宴は古代ギリシアと比べると大人しく、馬鹿騒ぎみたいなことはなかったようです。参加者全員で歌を歌ったり、余興を観たりもしましたが、古代ギリシアと比べると随分と理性的な酒宴と言えます。

平民のケーナは寝ながらではなく、普通に座って食事をしました。富裕層に比べると当然質素なもので、スペルト小麦の粥みたいなものや、ひよこ豆などのスープ、ブルメンタリアと呼ばれる干し肉などが食べられました。平民は暗くなったら就寝するのが普通で(明かりに使う油が高価)、酒宴なども開かれませんでした。

古代ローマの人々は食に大変なこだわりを見せていて、特にアピキウスは美食家として現代でも知られた存在です(本人のものではないのがわかっているがレシピ本も残っている。本人のレシピが載っている可能性もある)

古代ローマでは既に、エスカルゴやヤマネ、海産物の養殖もすでに行われていましたし、フォワグラも食べられていました(古代エジプトから食べられている)

魚介類の生食もしていて、牡蠣や貝類が生で食べられていた。鯛や鮪、鰻なども食べられていました。様々な地域から食材が輸入されていましたが、例えば胡椒もインドから輸入されていて非常に高価でした。

スパイスだと他にもクミンやコリアンダーなどもありましたし、ハーブはタイムやパセリ、サフランも使用されていました。

調味料としては先に書いたガルムも頻繁に使用されましたし(魚の種類によって名前が変わる。また血が入ったものや、ワインやオイルで割ったものもある)、酢やハチミツ、オリーブオイルやバター(オリーブオイルの方が人気があった)、レーズンなどを使って調理していました。ぶどうはレーズンとして使う以外にも汁を煮詰めて調味料として使っていました(濃度によりいくつかの種類がある)ワインにもなりますし、当時からぶどうは万能ですね。

これらのスパイス、ハーブや調味料を使って各種のソースが作られました。

多くの文化で食べてはいけないものがあるのに対し、基本的に食べれるものは何でも食べていたというのも古代ローマの1つの特徴です(初期の頃、牛が食べれなかったなどはありますが。期間も長いですし、ずっと同じではないですが大きく全体として捉えると)

また、最盛期を迎えた古代ローマでは、美食の観点ではなく珍しいものが好まれるようにもなっていきました。フラミンゴの舌やヒバリの舌、ラクダの蹄、孔雀なども食べられていたようです。なかなか興味深いですね。