フランス(ヨーロッパ)の歴史

イスラム教、イスラム帝国の発展

イスラム教、イスラム帝国の発展

西洋史を考える上ではイスラムとの関わりも非常に重要な部分ですので、イスラム教の誕生とイスラム帝国の歴史を簡単に紹介します。イエメンなどのことを書くとコーヒーとの関わりなども見えて面白いのですが、この記事では触れません。別記事でワインやコーヒー、お茶などの発展やつながりを書くかもしれません。

西洋との大きな接点は、ウマイヤ朝のイベリア半島制圧と(その後ガリアにまで進行したイスラム勢力をフランク王国が撃退したトゥール・ボワティエの戦い)、イスラムのアラブ人によるシチリア島の支配、そして西洋が聖地奪還のためにイスラム世界に侵攻した十字軍などがあります。

これらの出来事は(他の細かい出来事も色々とありますが)、西洋に非常に大きな影響を与えていくことになります。

西暦610年頃にムハンマドがメッカで唯一神の啓示を受けたとし、アラビア半島で布教を始めたのがイスラム教の始まりです。

イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同じく一神教です。この2つの宗教をより純化したような宗教で、コーランを教典としますが、聖書も尊重する立場を取ります。アッラーを唯一の神としますが、ユダヤ教やキリスト教の神と同じ存在を指します。

イスラム教は神の下での人類の平等を謳っていて、民族や身分、貧富の差なども関係ないとしています。他教徒の改宗も迫らず、共存の姿勢を取ってきたのも特徴です(コーランに宗教の強制があってはならないと書いてある)

イスラム教以前のアラブの地域は多神教でしたので、当初はメッカでは迫害されていましたが。ムハンマドはメッカからマディーナ(メディナ)に拠点を移し、少しづつ勢力を拡大し、630年にメッカも占領します。

ムハンマドの教えはアラビア半島中に急速に広がっていきます。

ムハンマドが亡くなった後、後継者の地位はカリフと定められました。

イスラム教はシリアをはじめ、エジプトやペルシアなどに勢力を拡大し、瞬く間に巨大なイスラム帝国を作り上げます(638年にエルサレムもイスラム勢力に攻め落とされイスラムの聖地となります)

一方でイスラム教徒内でも内紛が続きましたが、ウマイヤ家がカリフを世襲するようになりウマイヤ朝が始まります。

ウマイヤ朝はさらに領土の拡大を続け、北アフリカも征服し、711年にはイベリア半島に入り、イベリア半島を支配していた西ゴート王国を滅ぼします。

イスラム教徒は、ピレネー山脈を超えて、フランク王国にも侵入し領土を拡大しますが、732年のトゥール・ポワティエの戦いでカール・マルテルに敗れたことで(それとは関係なくウマイヤ朝の内紛が原因とも)、イベリア半島と南仏の一部のみを支配するに留まります。8cにはイベリア半島のみとなります。

大陸東部への侵攻も進み、中国の唐と争うところまで領土は拡大し続けます。

一方で内乱も続いていて、アッバーズ家の反乱によってウマイヤ朝は滅び、アッバーズ朝が始まります。

アッバース朝2代目カリフのマンスールは、762年にバグダードに新都を建設します。バグダードはイスラム帝国の中心地として大きく発展し、後に世界最大の都市と呼ばれるまでに成長します。

イベリア半島ではウマイヤ朝の生き残りが後ウマイヤ朝を開き、盛り返してきたカトリック勢力と争いを続けます(最終的にはレコンキスタでイスラム勢力はイベリア半島から消える)

アッバース朝支配下でチュニジアを支配していたアグラブ朝は、827年からシチリア島に侵攻し、シチリア首長国が成立します(後にノルマン人の王朝へと変わる)

エジプトにもファーティマ朝が開かれ(後ウマイヤ朝とファーティマ朝はともにカリフを名乗った)、さらに各地の有力者たちも半ば独立した勢力となっていきます。

945年、西北イランに成立したブワイフ朝がバグダードを占領します。アッバース朝カリフは名目上は存在していますが、形式的なものとなっていきます。1055年にはセルジューク朝がバグダードを占領します。

セルジューク朝は各地で地方政権が生まれ、それぞれが独立した形を取ります。中でもニカイアを首都としたルーム・セルジューク朝は、セルジューク朝や他の地方分権が衰退した後も長く続きました(ルームはローマの意味で、ビザンティン帝国領だったアナトリアに侵略し誕生した政権)

11c末にはビザンティン帝国が西洋に対して十字軍を呼びかけ、大規模な侵攻があります。地方政権がいくつも誕生し分裂していたイスラム勢力はエルサレムを占領され、エルサレム王国などの十字軍国家も誕生します。

十字軍はその後、何度もやってきますが、イスラム勢力は後にエルサレムを奪還、最終的に十字軍国家も滅びます。

エジプトでは1171年にファーティマ朝からアイユーブ朝に変わります。

1250年には奴隷身分出身の軍人であるマルムークたちがクーデターを起こし、アイユーブ朝のスルタンを殺害し、マルムーク朝が始まります(マルムークは奴隷ではありますが、しっかりと教育されて非常に優秀でした。マルムーク朝は言葉通り、マルムークが政権を握りましたが、それ以外の政権でも重要な役割を果たしている)

その後、アッバース朝が再び力を取り戻しますが、モンゴル帝国の襲来があり、13cにアッバース朝は滅び、イラン、イラクの地域にモンゴルの国であるイル=ハン国が誕生します。モンゴル帝国はティムール朝(ティムール帝国)に繋がり、イル・ハン国も最終的にティムール帝国に吸収されます。)

長く続いたルーム・セルジューク朝ですが、モンゴル軍の侵攻を受けて、1243年に属国となり、主権は失われ最終的に滅びます。

ルーム・セルジューク朝が力を失った後のアナトリアは、いくつもの小さな小国家が生まれますが、そこからオスマン朝も誕生します。

オスマン朝は各地を併合していき領土を拡大し、ビザンティン帝国のコンスタンティノーブルを何度も包囲するところまでいきますが、ティムールの侵攻があり、オスマン朝は一時衰えます。ですが、ティムールが去った後に再び勢力を伸ばし、遂にビザンティン帝国を滅ぼすこととなります(中世の終わり)

オスマン朝はコンスタンティノーブル(後のトルコの首都イスタンブール)を首都とし、さらに領土を拡大し、オスマン帝国と呼ばれる大帝国を築きます。1517年のオスマン・マルムーク戦争でマルムーク朝を滅ぼし、マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)も手に入れます。

オスマン帝国は西洋にとっても脅威となり、ウィーン包囲と言った歴史的にも大きな争いが起こりますが、時代とともに少しづつ勢力は弱まっていき、第一次世界大戦後にオスマン帝国は解体され、トルコ共和国が誕生します。


古代ギリシアなどの文化、科学は、8〜9cにアラビア語に翻訳されて、イスラム文化の発展に大きく貢献しました。そうした古代の文化と、領土を拡大していった各地の文化が融合しイスラム文化を形成しました。

錬金術、哲学、地理学、医学、数学、天文学など様々な分野で大きな発展があり、例えば、インドで生まれたゼロの概念はアラビア数字にも取り入れられ世界中で使われるようになります。

絵画では中国中国の影響を受けたミニアチュール(細密画)が発達しますし、美術の分野ではアラベスクという幾何学的模様が生まれ、モスク(イスラムの礼拝堂)の壁面に描かれるようになります。

西洋に比べて大きく進歩したイスラム文化は、十字軍により西洋にも伝わり、西洋のルネサンスに繋がっていきます。