ルーション地方とカタルーニャの歴史
ルーションを含むカタルーニャは、南仏の他のエリア同様、ギリシャ人の植民地となり(それ以前にケルト人が様々な文化を伝えた時代がありますが)、その後ローマ帝国(共和制ローマ)に征服されていきます。
ローマ帝国は、現在のタラゴンであるタラコや現在のバルセロナであるバルキノを建設。イベリア半島の北側はローマ化が進んでいきます。
ローマ帝国の分裂、弱体化に伴い、5c後半から西ゴート族がカタルーニャを含むイベリア半島を占領していき、589年にイベリア半島は統一されます。
711年にイベリア半島に侵入しやイスラム教徒がカタルーニャを征服。カタルーニャ北部は9c初頭頃にフランク王国領となりますが、南部は12c半ばまでイスラム教徒の支配下でした。
フランク王国のカール大帝は、イスラム教徒に対する備えとしてスペイン辺境領を設置します。
スペイン辺境領は、ルーションを含むいくつかの伯領に分かれていて、少しづつ領土を拡大し、バルセロナなども領土としました。
この拡大したスペイン辺境領から後に、ナバラ王国や、カタルーニャ君主国、アラゴン王国が生まれています。現在、フランスとスペインの間にある小さな国、アンドラ公国もスペイン辺境領の一部であるウルジェイ伯領がもともとの起源です。
フランク王国から分離し、明確にカタルーニャの領土が出来たのは988年のことです。
1137年には、先に分離していたアラゴン王国との同盟連合が成立します(アラゴン・カタルーニャ連合王国)
イベリア半島で最も強大な国になったアラゴン・カタルーニャ連合王国は、地中海にも勢力を伸ばし、地中海一帯を支配することとなります(ナポリ王国なども征服)
1479年にはカタルーニャ・アラゴンの王位継承者であるフェルナンド2世と、カスティーリャ王国の継承者であるイサベル1世の結婚により、カスティーリャとアラゴンの統一されました(スペインの国家統一)
それによりカタルーニャは独自性を奪われることとなります。
16〜17cにはカタルーニャは少しづつ衰退し、フランス・スペイン戦争後の1659年、ピレネー条約で北カタルーニャ(ルーション )はフランスへ割譲されました。
その後もカタルーニャの独自の文化は保たれています。今でもカタルーニャ語を話す方も多く、フランスというよりカタルーニャと言った方が自然な地域です。
スペイン自体、いくつかの国の集合のような国で、各地で大なり小なり独立運動が行われていますが、カタルーニャはその中でも独立の機運が特に高まっている地域です。2017年には独立宣言を行なっていますが、スペインからは無効を宣言され、どの国からも独立を認められていないのが現状です。
北カタルーニャとも呼ばれるルーション地方はスペインのカタルーニャ州ほどは独立に向けての流れが強くないように思いますが、カタルーニャ人としてのアイデンティティは大切にされています。