フランス(ヨーロッパ)の歴史

プロヴァンス地方の歴史

マルセイユ

プロヴァンス地方の歴史

プロヴァンスの中心都市、マルセイユの歴史は古く、紀元前600年頃に古代ギリシャのフォカイア人の植民都市として建設されたマッサリアが起源です。ぶどう栽培もその頃から行われていて、フランスで最初にワイン造りが行われた地域と言われています。

その後、紀元前4c頃にギリシャ人によって、アルル、アヴィニョン、ニースといった植民都市が築かれていきます。

ローマが力を持つにつれ少しづつローマ化が進み(途中、カルタゴに支配されたりもしましたが)、マッサリアを含むプロヴァンスやラングドック一帯はローマ帝国の属州ガリア・ナルボネンシスとなります。

5c初頭に現在のブルゴーニュを中心とした地域にブルグント王国が成立します。ブルグント王国はローヌ川流域の地域をローマから与えられます。現在のプロヴァンス全域ではありませんが、プロヴァンスの内陸部はブルグント王国の一部でした。

ローマ帝国は東西に分かれ、そして西ローマ帝国はメロヴィング朝フランク王国により滅ぼされますが、ブルグント王国も534年にフランク王国に滅ぼされ、ブルグンディア分王国として分割されます(その後他のフランク王国の地域も含めて統一される)

フランク王国がカロリング朝になり、カール大帝の時代に領土は最大になりますが、カール大帝の死後、分割され、ブルグント王国だったエリアはロタール1世の皇帝領に属します。

ロタール1世の死後、皇帝領はさらに分割され、イタリア王国、ロタリンギア王国、プロヴァンス王国に分かれます。

プロヴァンスの名前は、ローマ時代の言葉で属州そのものを意味するプロヴァンキアが変化して生まれた言葉です。

プロヴァンス王家は1代で断絶し、プロヴァンス王位は西フランク王国が受け継ぎますが、プロヴァンスの統治を任されていたポソが反乱を起こして再びプロヴァンス王国が誕生します(キスユラブルグント王国)

プロヴァンス王で、イタリア王、ローマ皇帝も兼ねていたルイ3世の時代にユーラブルグント王国と併合されます(933年)この時にアルルへ遷都したことから、アルル王国とも呼ばれます(キスユラブルグント王国はそれ以前にアルルに遷都していた)

947年にアルル王国内のプロヴァンス侯領となり、その後プロヴァンス伯領が誕生します。

1032年、アルル王国は神聖ローマ皇帝コンラート2世に相続され、プロヴァンスも神聖ローマ帝国の一部となります。

プロヴァンス伯位は、トゥールーズ家とバルセロナ家で争われることになり、デュランス川の北がトゥールーズ家、南がバルセロナ家の領土となります。

フランス王が主導したアルビジョワ十字軍によってトゥールーズなどは占領され、神聖ローマ帝国領だったプロヴァンスも占領されていきます。

トゥールーズ家のプロヴァンスの領土は女伯ジャンヌがフランス王ルイ8世の息子であるアルフォンスと結婚し、協定を結んでフランス王家に移りました。

バルセロナ家はアンジュー=シチリア家、ヴァロワ=アンジュー家と相続されていきます。

1388年、ニースなどのいくつかの自治体はサヴォワ家との関係を深め、サヴォワと併合します(1526年にニース伯領となる。最終的に1860年にフランスに併合)

ヴァロワ=アンジュー家のシャルル3世は後継者がいなかったためプロヴァンスの領土をフランス王に譲り、1484年にフランス王領となります。