フランス(ヨーロッパ)の歴史

中世について

中世について

中世というとファンタジー世界の王道のイメージで騎士が鎧着て~みたいな、なんだかかっこいいイメージがあります。実際、中世の時代はフランスやイタリア、ドイツといった西洋の国々にとって非常に重要な時代で、西洋らしさが形作られる基礎となっています。一方で暗黒時代とも言われ、文化や科学的な部分が後退した時代でもあります。

衛生環境も現代の生活から考えると、糞尿の臭いや動物の匂いが溢れていたと言われ、考えられない程ひどい環境に思いますが、それは現代人の感覚だからで当時の人々はそれほど気にならなかったようです(それ以外にも現代人とは色々な感覚が違うので、見方を変えないと理解出来ない時代でもあります)

中世の時代区分としては、476年の西ローマ帝国滅亡のあたりから1453年の東ローマ帝国(ビザンティン帝国)滅亡のあたりとされ、ルネサンスから宗教改革以降を近世とするのが一般的です(議論はあるにせよ)

西ローマ帝国は476年に傭兵隊長オドアケルが、皇帝位を東ローマ帝国に返還したことで滅亡したとされますが、国家としては数十年前から破綻していました。

ローマ帝国は緩やかに崩壊し、代わりにゲルマン民族が力を持ち始め、中心はローマの時代には辺境の地だったガリアやゲルマニア、ブリタニアに移っていきます。ゲルマン民族はローマの制度を維持しつつ、少しづつ自分たちのやり方に融合させていきました。

中心の地域が変わったと書きましたが、辺境の地域しか残らなかったとも言えます。ローマ帝国の主要な領域は地中海の地域でしたが、7世紀にはイスラム勢力が地中海で力を持ち、イベリア半島や南フランスの一部、イタリア半島南部もイスラム勢力化となります。

ギリシアからローマ帝国に受け継がれた文化や科学は、イスラムとギリシア周辺のビザンティン帝国(東ローマ帝国)に引き継がれ、西洋との交流は少なかったため、中世における西洋の文化的衰退につながります。

西洋の大部分を支配したフランク王国は、カール大帝(シャルル1世)の時代に少し復興しますが、カール大帝(シャルル1世)の死後に再び失われてしまいました。

そして、西洋で力を拡大させていたキリスト教カトリックは神の教えを重視し、他の文化や科学的な技術を蔑ろにしたことも、衰退を加速させた要因の1つです。

それにより西洋は先に書いたように、暗黒時代と呼ばれる文化的に後退した時代を迎えます。1096年の第一回から1世紀ほどに渡って何度も行われた聖地奪還のための十字軍は、他文化との交流を生み、失われた(さらに発展した)文化と触れたことで、その後のルネサンスに繋がっていきます。

西洋の歴史を見ると、ギリシア、ローマからフランク王国に連続的に続いている感覚に陥りますが、ギリシア、ローマの文化は一度失われ、その時に独自の西洋文化が生まれ、ルネサンスにより入ってきたギリシア、ローマ文化と融合したのが、現在の西洋と言えます。

中世の時代は良くも悪くもキリスト教(カトリック)の広がりに合わせて発展していきました。もともとキリスト教は、多神教国家だったローマ帝国内では迫害されていました(キリスト教は一神教)

それが313年のミラノ勅令によって他の全ての宗教とともに認められ、さらに392年にローマ帝国の国教となり、地位を確立していきます。

ローマ帝国の分裂後、西ローマ帝国のカトリックと、東ローマ帝国の正教会に分かれていきますが、西ローマ帝国のカトリックが、中世の西洋において重要な役割を果たすこととなります(カトリックは、普遍と言う意味で、信仰は一つに統一されるべきとの考えから来ています。基本的にカトリック以外を信仰する者はキリスト教でも異端とされましたが、東方正教に対しては分裂主義(シスマ)と呼んでいて、再統合されるべきものと見なされていた)

フランク王国を開いたクロヴィスがカトリックに改宗し保護したことで、フランク王国内にカトリックが広まり、西洋においてカトリックは正当性を持ち、発展していくことに繋がります。フランク王国が分裂した後の西洋においてもカトリックは人々の信仰の対象であり、拠り所となっていきました(中世の人々に対するカトリックの影響力はかなり強い。現代人には想像しにくい部分)

当時の人々の行動原理はカトリックの思想に直結していたと言えます。キリスト教カトリックは西洋中に広がり、国を超えての共通の思想となります。カトリックの最高権力である教皇の力も増し、武力などは弱くとも、財力と権力を持つようになります。フランク王国のピピン3世からの北イタリアの土地の寄進があり、その領土を徐々に拡大し、教皇領が成立します。

権力と富を手にした教皇や修道院は堕落していき、宗教改革へと繋がっていきますが、堕落したカトリックを立て直そうとする動きは何度も起こっています。

フランス、ブルゴーニュのワインの発展に欠かせないクリュニーとシトーの修道院に関しても、もともとクリュニーは910年に教皇以外の権力の影響を受けない自由修道院として設立され、シモニア(聖職売買)などに対する改革を行っていきましたが(グレゴリウス改革につながる)、徐々に思想は失われ華美になっていき、1098年に聖ベネディクトの戒律を厳密に守るシトー会の修道院が誕生します(その後も現在のカトリックと並ぶキリスト教の勢力と言えるプロテスタントの宗教改革や戦争が起こる)

もう1つの権力の象徴であるローマ皇帝は、西ローマ帝国の滅亡で一旦は消えますが(ビザンティン帝国には残る)、フランク王国のカール大帝(シャルル1世)の時代に復活し、フランク王国の分裂時には概念としての存在のようになりますが(イタリア王が名乗っていた)、その後は空位が続き、東フランク王国のオットーがイタリア王位争いに介入し、皇帝を名乗り始めます(神聖ローマ帝国の始まり)

基本的にもともとのローマ帝国自体とは繋がりはありませんが(ローマの街も関係なくなっている。戴冠はローマで行ったりしますが)後継だという流れです。かなり後の時代のことではありますが、ナポレオンも皇帝を名乗りましたけれど、これもカール大帝(シャルル1世)から続くフランク王国の流れを自称してのことです。

元々のローマ皇帝の始まりは、オクタウィアヌスが、共和政ローマ時代の多くの役職を兼ねることで事実上の君主になろうとしたことから始まり、それらの称号の1つだったインペラートルから来ています(インペラートルはエンペラーの語源です)

ローマを統治する一歩手前で暗殺されたカエサルの名前も皇帝を意味する言葉となり、ドイツ語のカイザーやスラブ語のツアーリの語源となっています(オクタウィアヌスが与えられたアウグストゥスもオクタウィアヌス自身を意味すると同時に皇帝の意味もある。ただし皇帝は中国の皇帝から当てられた言葉ではあるが、全く関係なく、皇帝という言葉を使うことで分かりづらくなっている側面もある)