フランス(ヨーロッパ)の歴史

ロワール地方の歴史

ロワール風景 ブロワ 夏

ロワール地方の歴史

現在のフランスや、ベルギーなどのエリアは、ローマ帝国にガリアと呼ばれていて、ケルト人が住んでいました。

ロワール地方もケルト人が住んでいて、例えば、シャルトルやオルレアンの地域にはケルト人のカルヌート族(カルヌテス族)が住んでいましたし、トゥール周辺にはトゥロネス族が住んでいました。

ケルト人とローマ帝国との争いが続き、最終的にはローマ帝国に支配されます。

東方からのフン族の侵攻などもあり、ローマ帝国は力を失っていきます。

フランス北部やベルギー周辺のエリアを支配し、徐々に領地を広げていたクロヴィス1世は、フランク族をまとめ、481年にフランク王国の最初の王朝であるメロヴィング朝を開きます。

486年にシアグリウス率いるソワソン王国(西ローマ帝国から独立した国)との戦いに勝利し、ロワール川北部まで領土を広げます。

フランス南部からイベリア半島にかけては、西ゴート族が治めていましたが(西ゴート王国)、クロヴィス1世は、西ゴート王国との戦いにも勝利し、西ゴート族は、イベリア半島に追われることになります。

クロヴィス1世の率いるフランク王国は東ローマ帝国から正式に承認され(西ローマ帝国はすでにない)、ガリアの支配を認められることとなります。

クロヴィス1世はゲルマン民族の王の中でカトリックに改宗した最初の人物で(王妃クロティルドの薦めで)、これはヨーロッパの歴史の中でもかなり重要なターニングポイントとなります。

フランク王国はメロヴィング朝の後にカロリング朝が続き、カール大帝(シャルルマーニュ)の時代に最盛期を迎え、広大な領土を支配します。

カール大帝の死後、フランク王国は分割され、一度統一された時期もありますが、再度分割され、現在のフランス、イタリア、ドイツの基盤が出来ます。

1066年のノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドに侵攻し、戦いに勝利したことでイングランド王ウィリアム1世として即位します。三代目の王であるヘンリー1世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の未亡人となっていた娘のマティルダを、1128年、アンジュー伯フルク5世の息子のジョフロワと結婚させます。ジョフロワとマティルダの子供がアンリで、後のヘンリー2世です。

アンリはアンジュ伯領だけではなくノルマンディー公として、ルイ7世から認められます。

フランス南西部アキテーヌ公領と、ポワトゥー伯領の継承者であり、ルイ7世の妃であるアリエノール・ダキテーヌは、ルイ7世と子供が出来なかったことなどから、近親婚を理由にして1152年3月に離婚が成立します。

同年5月にはアリエノールはアンリと再婚します。この結果、アンリはノルマンディー、アンジュー、アキテーヌとフランスの西側半分を支配する大領主となります。

さらにアンリはイングランドにも上陸、内乱で弱体化していたイングランドのスティーヴン王はアンリと和平交渉に臨み、アンリを養子として王位継承者とし、1153年アンリは、イングランド王ヘンリー2世として戴冠します。プランタジネット朝=アンジュー帝国の誕生です(アンジュー帝国は後に付けられた名称)イングランドの宮廷にアンジュのワインは知れ渡ることになります。

ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌに加えてイングランドも支配する大帝国です。ただしノルマンディーやアンジュー、アキテーヌなどはフランスカペー朝の臣下という形ではあります。

カペー朝の直轄領はパリからオルレアンにかけてのエリアのみでしたので、実質的に支配している領土はアンジュー帝国の方が圧倒的に巨大でした。

ヘンリー2世の死後は相続などを巡って争いが生じ、フランスの介入などもあり、領土を減らしていくことになります。第3代の王であるジョンの時代にノルマンディーやアンジューは喪失します。

14c〜15cにかけての百年戦争ではアキテーヌも失い、プランタジネット家は大陸の領土はほぼ失うこととなります。百年戦争後にはイングランドの王位も廃位され、アンジュー帝国は完全に崩壊します。

百年戦争は、フランスとイングランド(アンジュー帝国)によるフランス王位を争う戦争で、プランタジネット家とヴァロワ家の争いに、他の要因が重なったものです。

百年戦争をフランス側の勝利に導く大きな貢献をしたのはジャンヌ・ダルクです。ジャンヌ・ダルクが歴史の表舞台に姿を表したオルレアン包囲戦ではイングランド優位に戦いが進みますが、ジャンヌの登場で一気に形成が逆転します。ジャンヌ・ダルクが登場せず、オルレアンが陥落していたら、フランス王位はプランタジネット家のものになっていたかもしれないくらい重要な出来事です。

一方、ナントのエリアはブルターニュ公国の領地で、アンジュー帝国とフランスに挟まれる形の中、独立を保っていましたが、16cにフランス王国に併合されます。


ロワール地方にはフランスの王や貴族が住居とした城がたくさんあります。例えばブロワ城は5世紀ごろには城砦がありましたが、16c初頭にルイ12世が居城とし、城の再建をします。100年ほどの間、フランスの政治の中心地となっていた城です。ブロワ城で起こった出来事で最も知られているのはギーズ公アンリの暗殺事件です。

ロワール渓谷最大の城であるシャンボール城は元はフランソワ1世の狩猟用の城でしたが、1639年にルイ13世に城を与えられたオルレアン公ガストンが修繕し、その後ルイ14世も改修して現在の姿になっています。

アンジェ城は、もともとガロ・ロマン時代に城塞都市としてローマ人が住んでいた場所ですが、 9世紀にアンジュー伯、12世紀にはプランタジネット家領となっています。10c末、アンジュー伯フルク3世や、13cにフランス王ルイ9世によって改築され、他のロワール渓谷の城とは違う要塞のような姿になりました。