ジュラ地方の歴史
ジュラ地方のぶどう栽培の始まりはわかっていませんが、紀元80年頃に触れられている記述がありますので、それ以前ということになります。
もともとジュラ地方やブルゴーニュ地方は、411年に興ったブルグント族の国、ブルグント王国の一部でした。現在のブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏と、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、スイスのフランス語圏を合わせたものがほぼブルグント王国と一致します。
ブルグント王国はローマ帝国の同盟者の地位を得てこの地域を支配しますが、534年にフランク王国に滅ぼされました(その前にも一度、滅ぼされてから復活している)
ブルグントはフランス語でブルゴーニュの意味であり、ブルグント王国の滅亡後もブルゴーニュという名前は残り、ブルゴーニュ公国や現在のブルゴーニュ地方、カスティーリャ王国のブルゴーニュ朝の名前の由来となっています。
843年にフランク王国は3つに分割され、カロリング朝フランク王国は崩壊しますが、現在のブルゴーニュ地方とジュラ地方も分割されて統治されるようになります。
ブルゴーニュ地方はブルゴーニュ公国となり、ジュラ地方はブルゴーニュ伯領として統治されます。ブルゴーニュ伯領は神聖ローマ帝国領となりますが、臣従義務は免除されていて、フランシュ・コンテ(自由伯領)と呼ばれるようになります。
ブルゴーニュ公国が勢力を増してくると、14c末にブルゴーニュ伯領はブルゴーニュ公国と同盟を結び、その一部となります。15cのブルゴーニュ継承戦争後にハプスブルク家に支配されますが、17cにフランスに併合されました。