フランス(ヨーロッパ)の歴史

イタリア半島〜ヨーロッパの歴史〜

イタリア半島〜ヨーロッパの歴史〜

ローマ帝国の全盛期はヨーロッパの中心と言える存在だったイタリアですが、ローマ帝国の繁栄の終わりとともに様々な民族に占領され、いくつもの国が誕生しました。イタリアが再び統一されるのは19cのことです。

ローマ帝国は、3c頃からのゲルマン人などの侵入によって、徐々に崩壊していきます。

4cにはテオドシウス1世によってキリスト教が国教となります。テオドシウス1世が亡くなり、その後ローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分割されて統治されるようになりました。

西ローマ帝国はミラノ(後にラヴェンナ)を首都とし、東ローマ帝国はコンスタンティノポリスを首都とし、ローマはローマ帝国を象徴する都市となっていました。

ですが、410年に西ゴート族がローマに侵攻し、ローマ略奪と呼ばれる出来事が起こります。

西ゴート族はその後、ガリアに向かい、415年、西ゴート王国を建国します。

西ローマ帝国では、476年、軍人であるオドアケルは、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位して、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送りました。これによりオドアケルはイタリア本土を統治する権限を得ます。

ですが、東ゴート族との争いにオドアケルは敗れ、東ゴート王国が誕生し、イタリアを統治します(東ローマ帝国の代理という形)

シチリア島、サルディーニャ島、コルシカ島はアフリカから来たゲルマン系の民族のヴァンダル族に征服されます(5c)

ヴァンダル族はローマにも攻め入りますが、ローマ教皇レオ1世は、ヴァンダル族と交渉し、ローマを守ります。そうした背景もあり、ローマ教皇の権威は増していき、ヨーロッパ中に影響力を持つようになっていきます。

6cには東ローマ皇帝と東ゴート族の関係は悪化して、ゴート戦争が起こります。

東ローマ帝国が戦争に勝利し、イタリアはローマ帝国領となりますが、568年に今度はランゴバルド族が侵入し、イタリアのほぼ全てを征服し、ランゴバルド王国が誕生します(後の教皇領になる部分や、イタリア半島南端部は征服出来ず)

ランゴバルド王国は徐々に言語や文化が失われていき、ローマ帝国化していきます。一方、徐々に諸侯の力が増していき、スポレート王国(スポレートは現在のウンブリア州にある街。王国は現在のウンブリア、アブルッツォ、マルケ、ラツィオを含む地域)や、ベネヴェント王国(ベネヴェントは現在のカンパーニャ州にある街。南イタリアを支配した)などの属国が誕生します。

7c末には東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の自治領としてヴェネツィア共和国が誕生します。

フランク王国はカロリング朝のカール大帝の時代を迎え、774年にランゴバルド王国に攻め入り、ランゴバルド王とイタリア王の称号はカール大帝が兼ねる形になります(皇帝に戴冠されたのはもう少し後の800年です)

これによりイタリア王国が誕生し、フランク王国が分裂した後も9c末までカロリング家がイタリアを統治しますが、皇帝カルロ3世が廃位されたことで終わりをつげます(カルロ3世はフランク王国を統一するが、その後再び分裂した)

752年に教皇は、フランク王国からローマ周辺の領土を手に入れ徐々に拡大していきます。

951年に東フランク王国のオットー1世がイタリア王国に攻め入り、イタリア王を名乗ります。イタリアは形としては東フランク王国(神聖ローマ帝国)の一部となります。

イタリア王である神聖ローマ帝国の皇帝たちはイタリアに介入し、教皇と対立していくこととなります。

11c初頭には、ミラノやフィレンツェなどの都市が力を持ち、ミラノ公国や、フィレンツェ共和国といった都市国家が誕生します(神聖ローマ帝国の一部ではある)

南イタリアは9c以降、アラブ人がシチリア島を征服して、シチリア首長国を建国します。他にもビザンツ帝国領や、ナポリ公国、アマルフィ公国などがそれぞれの地域を支配していました。

ムスリムの国だったシチリア首長国は、ノルマン人に征服され、1130年にシチリア王国が成立します(半島にも領土を持つ)

その後シチリア王位は神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家に移り、さらにアンジュー家、そしてアラゴン王家(バルセロナ家)へと移っていきます。半島の領土はアンジュー家が支配し続けてナポリ王国となります。

フィレンツェ共和国では、メディチ家が影響力を強めていきます。メディチ家はレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどの芸術家の支援を行ったことで、ルネサンスが花開くこととなります(14c〜16cにかけて)

メディチ家はフィレンツェを追放されたりもしますが、再び権力を持つことに成功しています。また教皇を輩出したり、フランスのヴァロワ朝断絶後のブルボン朝に血統を残しています(初代国王のアンリ4世とメディチ家のマリー・ド・メディシスが結婚した)

1494年にフランスがイタリアに侵攻し、イタリア戦争が起こります。争いはフランス・ヴァロワ家と、神聖ローマ帝国・ハプスブルク家を中心としつつも、西ヨーロッパを巻き込んだ争いに発展してます。

イタリア戦争が終わり、イタリアはスペイン・ハプスブルク家の支配下となります(ミラノ公国やナポリ王国)

フィレンツェ共和国や、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国などの他の都市国家、そして教皇領もイタリア戦争によって疲弊し力を失っていきます。ルネサンスによって開花した文化的な先進性は、戦争によって衰え、数世紀に渡ってイタリアに影を落とすこととなります。

メディチ家が支配するフィレンツェ共和国は、16cにトスカーナ大公国となります。

18cにはスペイン・ハプスブルク家の断絶から、スペイン継承戦争が起こります。その結果、イタリアの支配はオーストリア・ハプスブルク家に移ります。

また、この頃からフランスのサヴォワから始まったサヴォイア公国がイタリア半島で力を持ち始めます。サヴォイア公国はサルディーニャ島を手に入れ、サルディーニャ王国が誕生します。

1768年にはコルシカ島を保有していたジェノヴァ共和国からフランスへコルシカ島が譲渡されます。

フランスでは革命が起き、権力を握ったナポレオン・ボナパルトがイタリアに侵攻し、イタリア半島はほぼナポレオンに制圧されます。

ナポレオンを国王とするイタリア王国が誕生しますが、ナポレオンの失脚とともに終わりを迎えます。

旧ヴェネツィア共和国と旧ミラノ公国の領土は、オーストリア帝国の一部となり、ロンバルド=ヴェネト王国が生まれます。

旧ジェノヴァ共和国のエリアはサルディーニャ王国に属すようになり、二つに分かれていたシチリア王国とナポリ王国は統合されて両シチリア王国が誕生します。

1859年、サルディーニャ王国はフランスと同盟を結んでオーストリア帝国と戦争を起こします。この戦争の結果、ロンバルディアをオーストリア帝国から取り戻し、トスカーナなどのイタリア中部も併合されることとなります。

ジュゼッペ・ガルバルディの千人隊は、イタリア南部に攻め入り、手に入れた領土(シチリア王国の領土)を、サルディーニャ王に献上したことで、イタリア半島のほとんどの部分がサルディーニャ王国の領土となり(サルディーニャ王国としては望んでいたことではなかったが)、1861年、イタリア王国が誕生します。

その後、1866年に普墺戦争でヴェネツィア(ヴェネト)を併合、1871年の普仏戦争の際にはローマを併合し、首都とします(ローマ教皇とは1929年まで対立が続くが和解し、バチカン市国が誕生する)

残りの「未回収のイタリア」と呼ばれる旧ヴェネツィア共和国領は基本的に1920年にイタリアに帰属することとなりますが、それは新たな紛争を招くことにもなりました。

イタリア領となった南ティロルは、長い間ドイツ系住民が住み定着していたので、ドイツ系住民に自治権を与え、トリエステ自由地域はユーゴスラビアと分割統治することで、紛争の広がりを抑えました。

北東部のサンマリノ共和国は、1631年に独立を承認されて以来(建国は4cとされている)、現在も独立を保っています。

未回収のイタリアには、フランスに割譲したサヴォワや、コルシカ島なども広く考えれば含みますが、第二次世界大戦のイタリアの敗北によって放棄しています。

大戦後には王政は廃止され、イタリア共和国となります。