フランス(ヨーロッパ)の歴史

イベリア半島〜ヨーロッパの歴史〜

イベリア半島

イベリア半島〜ヨーロッパの歴史〜

イベリア半島にはもともとイベリア人が住んでいましたが、紀元前12c頃にフェニキア人が入ってきます。その後、ガリアからケルト人やギリシア人も入ってくるようになりました。

紀元前2c頃、ローマとカルタゴ(現在のチュニジアあたりの国。イベリア半島南部にも領土を保有していた)の間で起こったポエニ戦争でローマが勝利したことで、イベリア半島はローマの支配を受けることとなります。

ローマは帝政となり、その時にイベリア半島は3つの属州に分かれます。

415年に西ゴート族がフランス南部のトゥールーズ周辺に西ゴート王国を建てますが、フランク王国との争いに敗れ、王国の中心をイベリア半島に移します。

西ゴート族はもともとアリウス派(キリストの神性を神より下位に置く宗派)でしたが、589年にカトリックへ改宗しています。

西ゴート王国はイベリア半島のほぼ全ての地域を統一しますが、711年にイスラム勢力のウマイヤ朝がイベリア半島に上陸すると、ウマイヤ朝に滅ぼされてしまいます。

イベリア半島の多くの地域がウマイヤ朝の属州となります。

西ゴート王国の生き残りはイベリア半島北部の山岳地帯に渡り、アストゥリアス王国を建国します。アストゥリアス王国は914年にレオンへ遷都し、レオン王国となります。

イスラム勢力との衝突が頻繁に起こった前線の地域にはカスティーリャ伯領が設置され、後にカスティーリャ伯領は独立します。

イスラム勢力のウマイヤ朝は、フランク王国にも侵入を始めます。

フランク王国のカール大帝は、イスラム勢力の侵入に備えて、スペイン辺境領を設置しました。

現在のナバーラ州の州都であるパンプローナもスペイン辺境領の一つでしたが、ここにはバスク人の祖先と言われているヴァスコン人が住んでいて、9cに独立してナバラ王国が誕生します(初期はパンプローナ王国)

ナバラ王のサンチョ3世はカスティーリャ伯領の相続人であるムニアドナと結婚し、イベリア半島のキリスト教圏で最大勢力となりますが、サンチョ3世の死後に、ナバラ、カスティーリャ、アラゴンなどに分かれてしまいます。

その後、カスティーリャとアラゴンの力が強くなり、ナバラは両国に分割されて統治されますが、再び独立します(1512年には再びカスティーリャ王国に併合されますが、1620年に北部はフランス領となります)

1037年にカスティーリャ王国のフェルナンド1世がレオン王位も獲得したことで、カスティーリャ=レオン王国が誕生します。

バルセロナ周辺の地域もスペイン辺境領でしたが、こちらも11cにカタルーニャ君主国が誕生します。

サンチョ3世の息子、ラミロ1世はハカ周辺のアラゴンを与えられ(ハカもスペイン辺境領の一つだった)、国王の称号も手にします。

カタルーニャ君主国とアラゴン王国は婚姻による同君連合となり、1137年に、アラゴン連合王国が誕生します。

現フランスのルシオンもアラゴン連合王国に併合されます(ルシオンはその後、マヨルカ王国や、フランスの統治の時代を経ながらもカタルーニャの一部として文化を保っていきますが、最終的に1659年のピレネー条約でフランスに割譲されます)

一方、イスラム勢力の方は750年ウマイヤ朝がアッパーズ革命により滅亡しますが、ウマイヤ家の生き残りがイベリア半島に逃れて後ウマイヤ朝を建国します。一時は繁栄を見せた後ウマイヤ朝ですが、1031年に滅亡し、第一次タイファ時代と呼ばれるグラナダ王国やバレンシア王国といった小王国が分立する時代を迎えます。

イスラム勢力がいくつかの勢力に分かれたこともあり、カスティーリャ=レオン王国は、1085年にはイスラム勢力の中心地であるトレドを征服することに成功します。

1143年にはカスティーリャ王国からポルトガル王国が独立します。

徐々にカトリック勢力が力を付け、カスティーリャ王国の他、ポルトガル王国、アラゴン王国などがレコンキスタと呼ばれる再征服運動を進めていきます。

1238年にアラゴン王国がバレンシア王国を征服し、カスティーリャ王国はセビリアを制圧することで、イベリア半島にはカスティーリャに臣従を誓うグラナダのナスル朝のみとなります(このグラナダ王国は1492年まで存続)

この時点でイベリア半島はカトリック圏に完全に戻ったと言えます。現在のスペイン文化は、イスラム勢力が支配していた頃の文化とカトリックの文化が混ざり合って形作られていきました。

イスラム勢力を追い出すことに成功した後の各国は、それぞれの領土拡大の道を進みます。

カスティーリャでは14cにカスティーリャ継承戦争が起こり、これは本来、内乱ではありますが、百年戦争で争うフランスとイングランドそれぞれに協力を仰いだため、大きな争いに発展します。

アラゴン王国は地中海に勢力を伸ばし、シチリアとイタリア半島南部を領土とするシチリア王国を手に入れます。

アラゴンのフェルナンド2世とカスティーリャのイザベル1世が結婚したことで、1479年にスペイン王国が誕生します(15cにはポルトガルやスペインは他のヨーロッパの国々に先駆けて大航海時代に入ります)

そして、2人の次女であるフアナと、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子であるブルゴーニュ公のフィリップ美公が結婚し、その息子のカルロス1世が、カスティーリャ=アラゴン王として即位します(スペイン・ハプスブルク家の始まり)

カルロス1世は神聖ローマ皇帝としてもカール5世として即位します(フランスを両側から挟む形になった)

カルロス1世は息子のフェリペ2世にスペインの領土を、弟のフェルナンド1世にオーストリア・神聖ローマ帝国の領土を継承させたことで、オーストリアとスペインは、オーストリア・ハプスブルク家と、スペイン・ハプスブルク家(アブスブルゴ朝)の2つに分かれて統治されることとなります。

フェリペ2世はポルトガル王位も継承します。

16c中頃から17c前半までの間にスペインは繁栄を極め、黄金の世紀とも呼ばれますが、その後、勢力を弱めていきます。

1640年にはポルトガルが独立、カタルーニャでの収穫人戦争と西仏戦争の後に締結されたピレネー条約で、先に述べた通り、ルーション地方をフランスに割譲することとなります。

1700年にカルロス2世が亡くなると、フランス王ルイ14cの孫でブルボン家のアンジュー公フィリップがスペイン王に即位し、それが反発を招き、ヨーロッパの各国が関わるスペイン継承戦争が起こります(フランスの領土拡大と、それに対する各国の反発)

各国の協力により、フランスの領土拡大は阻止されますが、フェリペ5世は、スペイン王として認められます(フェリペ5世はフランス王継承権を放棄した。またイベリア半島外の領土をかなり他国に割譲することとなった)

フェリペ5世は中央集権化を図り、諸王国を一つにまとめ、現在のスペインへと生まれ変わっていきます(現在まで続くスペイン・ブルボン朝)

フランスではナポレオンが政権を握り、ヨーロッパ中を制圧したこともあり、スペイン・ブルボン朝は中断しますが(その後も何度か中断しつつも)、現在まで王朝は続いています。