フランス(ヨーロッパ)の歴史

神聖ローマ帝国〜ヨーロッパの歴史〜

レーゲンスブルグドイツドナウ川

神聖ローマ帝国からオーストリア・ハンガリー帝国、そしてドイツへ

クロヴィスが興したフランク王国は8cにカロリング朝の時代を迎えますが、カロリング朝を開いたピピン3世の子供であるカールは、フランク王国の領土を最大にします。カールは800年にローマ皇帝として戴冠されます(有名なカール大帝)

カール大帝の死後、フランク王国は分裂し、西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国に分かれます(その後さらに分割されたり、一時、統一されたりもします)

西フランク王国は、フランス王国へ変わっていきますが、それはフランスの歴史で紹介していますので、ここでは東フランク王国の歴史を追ってみます。

東フランク王国はいくつかの地域の連合国家となっていきます。現在のドイツやオーストリア、スイス、イタリア(中部辺りまで)が、東フランス王国が支配するエリアでした。

東フランク王国は、919年にザクセン朝が開かれ、フランク人の国ではなくなります(もともとゲルマニアの地域はローマ帝国の支配を受けていな場所で、フランク王国に征服されたが文化などが違う)1024年にはザーリアー朝、1138年にホーエンシュタウフェン朝と続きます。

962年にドイツ王でイタリア王でもあったオットー1世が戴冠され(帝位を復興した。皇帝は東フランク王とイタリア王を兼ねていた)、神聖ローマ帝国が誕生します。この辺は難しくてカール大帝の戴冠が神聖ローマ帝国の始まりとも言われています。

1032年にブルグント王国が断絶してからは、ブルグント王(アルル王国の王)も名乗ることとなります。

明確にいつから使われたかは不明ではありますが、ローマ王の称号も使われ出します(後に皇帝戴冠前はローマ王、戴冠後にローマ皇帝の称号を用いるようになる)

当時は神聖ローマ帝国という言葉はまだありませんでした(単に帝国と呼ばれていた)神聖帝国の名前を用いたのはホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ1世で(12c)、皇帝と教皇は対等であることを示しました。

ホーエンシュタウフェン朝が断絶し、大空位時代に入りますが、その頃から神聖ローマ帝国という言葉が使われ出しています(13c)

もともと連合国家のようだった帝国ですが、大空位時代には、よりその傾向は強まり、各地の諸侯はそれぞれの領地の支配を確立していきます。

大空位時代の13〜15cのローマ王は世襲されず選挙によって選ばれましたが(7選帝侯によって皇帝を選出した時代など)、15cの半ばになるとオーストリアのハプスブルク家が力を持ち始め(もとはスイスの諸侯)、帝位を独占していきます(それ以前にもローマ王になっている)

15cにはビザンティン帝国(ビザンツ帝国)がオスマン帝国に滅ぼされます。中世の終わりとされる出来事です。それ以降、オスマン帝国は神聖ローマ帝国にとっての脅威になっていきます(1529年にオスマン軍帝国軍がウィーンを包囲した第一次ウィーン包囲など)

ハプスブルク家のマクシミリアン1世はブルゴーニュ公シャルルの子マリーと婚約しますが、シャルルが戦死し、ブルゴーニュ領ネーデルランドと(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグあたり)、フランシュ・コンテ(ブルゴーニュ伯領)を手に入れます(ブルゴーニュ公領はフランスのものとなる。最終的には1529年にブルゴーニュ伯領もフランスに帰属する)

ローマ皇帝は、教皇から直接帝冠を受けなくては名乗れませんでしたが、マクシミリアン1世の時代に帝冠なしでローマ皇帝を名乗るようになります。またマクシミリアン1世は、国名に「ドイツ国民の」という言葉を付けて、ドイツ国民の神聖ローマ帝国と定めます(イタリアの王権も失っていた)

マクシミリアン1世は、息子のフィリップを1500年にスペイン王女と結婚させ、スペインを支配下に置くことに成功します(フランスを東西から挟む形となった)

そのフィリップ美公の息子のカール五世は神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねていて、最もフランスの脅威となっていた時代です。その後はそれぞれ別の統治者がいて結びつきは徐々に弱くなります。

16cにはフランスのヴァロワ朝とハプスブルク家は、イタリアを巡って激しい争いをします。イタリアの都市国家なども含めたヨーロッパ中の国が関わる大きな戦争となりました(イタリア戦争)

フランスはイタリアを諦め、そしてミラノやナポリはスペイン・ハプスブルク家の支配下となります。

1526年にハンガリー王国やボヘミア王国も手中に収め、同君連合のハプスブルク帝国が誕生します(当時の名称ではない。公式の名称はなく、オーストリアと呼ばれていた)

1618年には宗教戦争が引き金となり、フランスとハプスブルク家の争いからヨーロッパ中を巻き込んだ戦争へと発展した三十年戦争が起こります。この戦争によりハプスブルク帝国は弱体化します。ハプスブルク家は帝位は持ったままでしたが、オーストリアを支配するのみとなり、オーストリア帝国、そしてオーストリア・ハンガリー帝国と続いていきます。

戦争でドイツは壊滅状態となり、新たに台頭してきたホーエンツォレルン家が勢力を伸ばし1701年にプロイセン王国を作ります。

1740年のオーストリア継承戦争で(息子がいなかった皇帝のカール6世が娘のマリア・テレジアにオーストリアを継がせようとしたことから発展した戦争)、ハプスブルク家とプロイセンは対立を深め、ハプスブルク家はフランスと同盟までするようになります。

1789年のフランス革命後にフランスで権力を握ったナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、帝国はほぼ制圧されます。

フランツ2世が1806年に解散を宣言し、神聖ローマ帝国は完全に消滅することとなります。普仏戦争後ドイツ帝国が誕生し(プロイセン王国が中心となってオーストリア=ハンガリー帝国領以外のドイツを統一した)、第二次大戦時のナチス・ドイツを経て、現在のドイツへと繋がっていきます。