フランス(ヨーロッパ)の歴史

フランスの歴史〜ヨーロッパの歴史〜

キリスト教教会

フランスの歴史〜ヨーロッパの歴史〜

フランスの歴史をしっかりと書いていくと膨大になりますので、出来る限り簡略化したものを紹介します。

先史時代にも文明はありましたが、古代ローマが勢力を誇った時代から始めます。

古代ローマは名前の通り、現在のイタリア、ローマを中心とした国で、元々は共和制で、その後帝政の国となっていきます(ローマ帝国)現在のフランスにはケルト人が住んでいて、古代ローマからはガリアと呼ばれていました。

紀元前1cに共和制ローマのカエサルは、ガリア遠征を行い、ガリア全土はローマの属州となっていきます(南部は遠征以前からローマの支配下にあった)

ローマは帝政になり、属州だったガリアは少しづつローマ化が進み、ガリアの文化と混ざり合い独自の文化、ガロ・ローマ文化が生まれていきます。

3c頃、ゲルマン人の一派であるフランク人がガリアの地に流入し始めます。

ローマ帝国は徐々に弱体化し始める一方で、ガリアの地ではフランク人の勢力が増していきます。

ローマ帝国は東西に分裂し、476年に西ローマ帝国は滅亡します。

481年、クローヴィスがフランク王国(メロヴィング朝)を建国。クローヴィスはカトリックに改宗したことで、フランク王国でキリスト教が広がっていく事になります。

ガリアの地には他にも西ゴート王国や、ブルグント王国がありましたが、フランク王国に滅ぼされ(西ゴート王国はイベリア半島に領土は残る)、ガリアはフランク王国に統一されます。

フランク族には分割相続の習慣があり、領土内に分王国が生まれていきます。メロヴィング朝の王権は徐々に弱まっていきました。

分王国の1つであるアウストラシア(ランスや、現在のドイツ西部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダなどを支配していた分王国)の宮宰であったカロリング家はピピン2世の時代に全分王国の宮宰を勤めることとなり、大きな権力を手にします。

ピピン2世の孫であるピピン3世は(父親はカール・マルテル)、メロヴィング朝を廃し、カロリング朝を開くことに成功しました。

ピピン3世の子供であるシャルルマーニュ(カール大帝)の時代に版図は最大となり、イベリア半島を除く西ヨーロッパのほぼ全てを占めるほどになります。

シャルルマーニュ(カール大帝)は、ローマ皇帝としても即位し、宗教的権威も持つようになります。

シャルルマーニュ (カール大帝)の死後に(正確には死後ではなくもうしばらく後ですが)、フランク王国は3分割され、東フランク王国、中部フランク王国、西フランク王国にわかれます。

この3つの王国がそれぞれ現在のフランス、イタリア、ドイツの元となっています(イタリアは、中部フランク王国がさらに分割された南側)

西フランク王国は、一時、カロリング家から離れ、ロベール家とカロリング家の間で王位が揺れ動きます。

ルイ5世が死去し、カロリング家が断絶したことを受け、987年にロベール家のユーグ・カペーが国王に推挙されカペー朝を開き、カロリング朝は終わりを迎えます。カペー朝の創設をもってフランク王国は終わり、フランス王国が誕生したというのが一般的な理解です。

カペー朝が成立した時点では、かなり弱い基盤の上に成り立っている王朝でした。パリ周辺のイル・ド・フランスを抑えるのみで、王としては認められていましたが、他地域の諸侯の方が権力がある状態でした。

その中でもアンジュー伯領を統治していたプランタジネット家のアンリは、1152年にアキテーヌ公領を統治していたアリエノール・ダキテーヌ(元フランス王ルイ7世の妻。離婚していなければカペー朝は領土を拡大できていた)と結婚し、広大な領土を持つようになります。

アンリは、イングランド王であるヘンリー1世の子供のマティルダが母親であったため、イングランド王国の王位継承者でもあり、1154年にイングランド国王としても即位することとなります。広大な領土を誇るアンジュー帝国の誕生です(ボルドーやロワールの歴史の項でも触れています)

最初は弱い基盤の上に成り立っていたカペー朝ですが、12cから13cにかけて王権を強化していきます。政略結婚や、イングランド王室の内部抗争を利用して、領土を広げていき、大陸内のイングランドが所有する領土を取り返すことに成功します(ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌなど)

さらに南フランスで広がっているアルビジョワ派を異端とし、1209年にローマ教皇と連携してアルビジョワ十字軍を組織し、南フランスを制圧し、さらに領土を広げます。

その後、フランスとローマ教皇は対立するようになり、1309年に教皇庁をローマからアヴィニョンに移転させることに成功します(アヴィニョン捕囚)

1328年に15代国王であるシャルル4世が亡くなると、直系男児の後継ぎがいなかったため、カペー朝は終わりを告げ、ヴァロワ朝が始まります(ヴァロワ家もカペー家の男系支族ではある)

ところが当時のイングランド王のエドワード3世もカペー家の血を引いていたことから、フランス王位を要求し、これが百年戦争の始まりとなります。

当初はイングランドに対して劣勢だったフランスですが、ジャンヌ・ダルクの登場により、形勢は逆転し、百年戦争はフランスの勝利で幕を閉じます。

当時は国に対する意識も現在とはずいぶんと異なり、この百年戦争を通じて、フランス、イングランド両国の国民意識が形成されました。

百年戦争後のフランスはイタリアに侵攻し、ハプスブルク家(オーストリア、スペイン)と争うこととなります(イタリア戦争)

この数回にわたるイタリア戦争のため、イタリアは荒廃し、最終的にスペイン・ハプスブルク家が支配することとなります(フランスはイタリアを諦めた)

イタリア戦争によってフランスの国力は衰え、さらに宗教紛争も起こります(ユグノー戦争。カトリックとプロテスタントの争い)

1589年に第13代国王のアンリ3世が暗殺されたことでヴァロワ家は断絶し、ブルボン朝へと移ることとなります。

ブルボン朝もカペー家の支流です。

太陽王と呼ばれるルイ14世の時代に最盛期を迎え、絶対王政を確立します。

対立していたハプスブルク家とも政略結婚を通じて関係性を深めていきます。

ルイ14世は戦争なども積極的に行い、領土を拡大させますが、フランスの財政は悪化していくこととなります。

ルイ16世の時代には、財政は破綻寸前にまでなり、1789年のフランス革命へと繋がっていきます。

革命により王政は廃止され、ルイ16世は処刑されます。

第一共和制を経て、フランス革命の混乱を収束させたナポレオン・ボナパルトが皇帝となり(1804年)、第一帝政が始まります。

ナポレオンが進めたナポレオン戦争により、一時はヨーロッパ内のほとんどを支配するまでになりましたが、ヨーロッパ諸国が結成した対仏同盟との争いに敗れ、退位することとなります。

フランスは再び、ブルボン家であるルイ18世が国王に即位しますが、民衆の不満は大きく、再びナポレオン1世が復位します。

しかしナポレオンは、イギリス・プロイセン連合軍にワーテルローの戦いで敗れ、再び退位に追い込まれることとなります。

オルレアン家のルイ・フィリップがフランス王となりますが(7月王政)、二月革命が起こり退位させられます。

その後第二共和制となりますが、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)が皇帝に即位し、第二帝政が始まります。

フランスとプロイセンの普仏戦争が1870年に起こり、フランスは敗れ、ナポレオン3世は退位させられます(その後も戦争は続く)

普仏戦争の終盤にプロイセン王は、ドイツ皇帝として即位し、ドイツ帝国が誕生します。

1875年にフランスでは第三共和制が発足します。1914年には第一次世界大戦、1939年には第二次世界大戦が勃発します。

第二次世界大戦ではフランスはナチス・ドイツに占領され、第三共和制は崩壊します。

最終的にはナチス・ドイツは連合国に敗れ、1947年に第四共和制が始まり、1959年には現在の第五共和制へと移行しています。