フランス(ヨーロッパ)の歴史

イングランド〜ヨーロッパの歴史〜

イングランドロンドンテムズ川

イングランド〜ヨーロッパの歴史〜

イギリス(United Kingdom)は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国の連合王国ですが、フランスとの関わりを考えるとイングランドの歴史がとても重要ですので、イングランドを中心とした歴史を簡単に紹介します(ボルドーやロワールの歴史の記事でも触れていますが)

現在のイギリスは、グレートブリテン島と、アイルランド島の北東部、そしてその他の多くの島々から構成されています。

グレートブリテン島はイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの国があるイギリスの中心的な島です。

グレートブリテン島には紀元前7c頃からケルト人(ではないという話もある)が住み始めましたが(それ以前の先史時代は省略)、紀元前後にローマ帝国に侵略され、ブリタンニアと呼ばれるようになります(ブリテン島の起源)

5cになると今度はゲルマン人であるアングル人やサクソン人がブリタンニアに侵入してきました。ローマ帝国はブリタンニアから引き上げることとなります(ガリアの地にも4c頃からゲルマン人が侵入)

ブリタンニアには7つの王国が生まれ、勢力争いが起こります。最初にこの地を統一したのはアングル人で、ローマ帝国からはアングリアと呼ばれるようになります。このアングリアがイングランドという言葉の起源です。

その時にケルト人は、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、そしてイングランドの南西端であるコーンウェルなどに追いやられ、さらに大陸側のブルターニュに移住し(ブルトン人と呼ばれる)、ブルターニュ王国(後にフランス王に従いブルターニュ公国に)が誕生します。

アングル人やその後のサクソン人の王国が支配した時代と重なりように、今度は、デンマークからデーン人が侵入してきます(9c頃)

勢力を増したデーン人は、1016年にイングランドを征服し、デーン朝が開かれますが、その後、再びアングロサクソン人がイングランドを支配します。

対岸のフランスには9cにノルマン人が侵入し、ノルマンディー公国が成立します。ノルマン人もデンマークやノルウェーからやってきた民族です。ノルマンディー公国は、イングランドに干渉するようになり、1066年にはノルマンディー公ギョーム2世がヘイスティングズの戦いに勝利し、イングランド王となります(ノルマンコンクエスト)

これにより、ノルマンディー公国は、フランス王の臣下という立場でありながら、イングランド王としてはフランス王と対等という不思議な状況が生まれました。

ノルマン朝4代目のヘンリー1世は、嫡男ウィリアムを亡くしてしまいます。そのため、ヘンリー1世はウィリアムの姉であるマティルダをアンジュー伯ジョフロワ4世と結婚させ、息子のアンリがヘンリー2世としてイングランド王に即位することとなります(ヘンリー1世の死後、無政府時代と呼ばれる内戦状態が20年近く続きましたが)

プランタジネット朝の成立です。

ヘンリー2世は、アキテーヌ女公のアリエノールと結婚していて(アリエノールは元フランス王ルイ7世の王妃)、イングランド王に即位した時点で、フランスに広大な領土を保有していました(アキテーヌやアンジュ)

これが後世にアンジュー帝国と呼ばれる広大な領土を保有した帝国です(帝国かどうかは議論があるようですが)

広大な領土を誇ったアンジュー帝国ですが、プランタジネット朝3代目のジョン欠地王の時代に、フランスとの領土争いに敗れ、大陸領土はほぼ失ってしまいます。

その後、フランスのカペー朝が断絶し、ヴァロワ朝が誕生しますが、1337年、イングランド王のエドワード3世は、フランスの王位継承権を主張し(フランス王フィリップ4世の娘であるイザベラが母親のため)、百年戦争が始まります(他にもいくつかの要因があって関係は悪化していた)

この百年戦争はイングランドにとってもフランスにとっても非常に重要な戦争で、長い戦争を通して両国はそれぞれ現在で言う意味での国家になっていったとも言えます(昔の国の概念は今とは違った)

百年戦争の初期にフランドルで反乱が起き、イングランド、フランスともに介入しますが、最終的に2年間の休戦協定が結ばれます。

次に問題となったのがブルターニュで、ブルターニュ継承戦争が起こります。イングランドの支援を受けたジャン4世と、フランスの支援を受けたシャルル・ド・ブロワによる継承戦争で、ジャン4世が勝利しますが、フランスとも和解し、ブルターニュはフランスの封臣となります。

1346年にイングランドはノルマンディーに上陸し、クレシーの戦いが起こりますが、イングランド軍は快勝し、さらに港町のカレーを落とすなど、大陸内の領土を広げていきます。

一方、両国でペスト(黒死病)が流行するなど、戦争どころではない状態にもなり、休戦の流れとなりますが、まとまらず、戦争は再開されます。

カスティーリャ王国への両国の介入などを経て、休戦を挟みながら戦争は続きますが、両国とも内乱にも手を焼く状態になります。

イングランドはランカスター朝に変わり、フランスではブルゴーニュ公国を中心としらブルゴーニュ派と、オルレアン公やアルマニャック伯を中心としたアルマニャック派に分かれて争いが起こります。

一足早く内乱を収めたイングランドはノルマンディーに上陸します。

ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は、イングランドとアングロ・ブルギニヨン同盟を結びます。ブルゴーニュ公国は一応、フランスに属しますが、イングランドの味方をする形となります。

フランスの代表としてフィリップ3世が1420年にトロワ条約を結びますが、こういった背景もありイングランド優位の条約となります。このトロワ条約により、フランス王シャルル6世が亡くなった後、イングランド王ヘンリー5世が後継者になることが決まります。

1422年にヘンリー5世、次いでシャルル6世が亡くなったことで、ヘンリー6世がフランス王およびイングランド王と宣言されます(ヘンリー6世はこの時0歳)

一方でトロワ条約前から王太子だったシャルル6世の五男、シャルル7世もフランス王位を継承する宣言をし、ヘンリー6世と争うこととなります。

1428年にイングランドは、フランスの重要拠点であるオルレアンを包囲します(オルレアン包囲戦)

イングランド優勢で進んだオルレアン包囲戦ですが、ジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス側が勝利します(オルレアンでイングランドが勝利していたら、フランス全土がイングランドのものになっていたのでは?とも言われている)

オルレアン包囲戦を機に勢いを増したフランス軍によって、イングランドが占領していた地域は、ほぼ取り戻されてしまいます(1453年にボルドーが陥落し、百年戦争は終結する。ただしカレーだけは、1558年までイギリスの領土だった)

百年戦争終結後もイングランド王はフランス王の称号を名乗り続け、1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立するまで続きました。

百年戦争後のイングランドは、ランカスター家とヨーク家の内戦である薔薇戦争が起こります(ランカスター家もヨーク家もプランタジネット家の血を引く)

ヨーク家が実権を握り、ヨーク朝が開かれた時期もありますが、最終的にランカスター派のヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位し、1485年にテューダー朝が成立します(ヨーク家のエリザベスと結婚)

イングランドは、ヘンリー8世の離婚問題などからイングランド国教会が誕生しますが、カトリックとイングランド国教会の間で揺れ動き、エリザベス1世の時代にイングランド国教会が完全に優位に立ちます。

またテューダー朝は絶対王政を確立した時代でもありますが、エリザベス1世が統治している時に最も王権が強まったこともあり、エリザベス1世の時代をエリザベス朝と呼びます。

エリザベス1世は、生涯独身で、後継者にはスコットランド王であったステュアート家のジェームズ6世が選ばれます。

この時にイングランドとスコットランドは同君連合となります。ステュアート朝の始まりです。

その後、清教徒革命が起こり共和制となりますが、王政復古、名誉革命を経て1707年にイングランドとスコットは同君連合から連合国家となり、グレートブリテン王国が誕生します(王より議会の方が優位性があることを権利の章典で明文化した)