フランス(ヨーロッパ)の歴史

西洋におけるキリスト教の歴史〜カトリック、教皇、修道院〜

西洋におけるキリスト教の歴史〜カトリック、教皇、修道院〜

キリスト教はイエスの死後、紀元1c中頃からイエスの弟子たちが説き始めた教えです。世界中で最も多くの信者がいる宗教で、キリストが生まれた年を起源とする西暦は世界中で基準となっています(キリストが生まれた年では実際ないようですが)

キリスト教は、もともとユダヤ教の一派から派生していて、ユダヤ戦争(66~70年)の後、ユダヤ教から分離しました。

ユダヤ教にはもともとメシア(救世主)を待望する信仰があり、それがイエスだと信じる人たちに寄って広められた教えがキリスト教です。キリスト自体、メシアの意味です。

ユダヤ教と同じく一神教のキリスト教ですが、ユダヤ教の神はヤハウェで、キリスト教の神もユダヤ教の神と同一です。違う部分は、キリスト教が三位一体説を採用していて、父なる神のヤハウェと、子なる神のイエス・キリスト、そして聖霊なる神の3つが同一の存在で、唯一の神であるという立場を取ります。

キリスト教の教典である聖書は2つあり、1つがユダヤ教のユダヤ経典とほぼ同じ内容の旧約聖書、そしてもう1つがキリスト教の誕生後にまとめられた新約聖書です。

旧約聖書には天地創造について書かれた創世記や、様々な予言書などで構成されています。

新約聖書はイエスの弟子たちによる4つの福音書や、パウロが各教会に宛てた手紙、世界の終末を描くヨハネの黙示録などで構成されます。

2つの聖書の内、キリスト教でより重視されるのは新約聖書です。

福音書はイエスの伝記となっていますが、それぞれ内容は少しづつ異なります。

イエスは、ベツレヘムで生まれたとされています(ベツレヘムはメシアが生まれるという予言が聖書にあることに由来するとも言われる。福音書によっては記述なし)

母親はマリアで、処女懐胎によりイエスを身ごもったとされ、聖母マリアとも呼ばれています(イエスが生まれた日は不明。12月25日はかなり経ってからの後付けでもともとはミトラス教のお祭りが行われていた日)

マタイの福音書では、東方の三博士(占星術の学者)がベツレヘムで誕生したイエスの元に訪れ、乳香、没薬、黄金の贈り物を捧げたとあります(3つの贈り物から三人という解釈がされるが人数は不明)

この地を支配していたヘロデ大王は、ユダヤ人の王が生まれることを恐れ、イエスに危険が迫ったのでエジプトに逃れ、後にナザレに向かいます(これも福音書によって違いますが)

イエスは30歳頃から宗教家としての活動を始めます。イエスによって選ばれた12人の弟子は十二使徒と呼ばれます。

イエス達はエルサレムに向かい、そこで十字架刑となりますが、その前日の食事がレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で有名な最後の晩餐です。

そこでイエスは自らがこれから死を迎えることを示し、パンとワインをそれぞれ、自分の体、自分の血として弟子達に与えます(ワインとキリスト教の強いつながりの原点)他にも弟子の一人が裏切ることなどが伝えられます。

最後の晩餐は、ユダヤ教の行事である過越の食事とされ、カトリックのミサなどでは無発酵のパンが用いられます(東方教会などでは解釈が違い、発酵パン)

イエスは自らをユダヤ人の王と名乗り、そして神の子と自称した罪で十字架刑とされますが、その3日後に復活し、弟子達の前に現れます。

イエスの弟子達が、イエスの教えを広め始め、イエスは私たちの罪のために死んだという贖罪信仰が確立していきます(イエスが罪を全て背負ってくれた)

ローマ帝国の発展に伴い、ローマ帝国内でも布教が行われましたが、当初のキリスト教は迫害を受けていました。迫害を受けながらもキリスト教の拡大は続き、313年のミラノ勅令で公認され(他の宗教も同様に)、380年にはテオドシウス帝により、ローマ帝国の国教として認められるまでになります。さらに392年には、キリスト教以外の宗教や、異端の信仰が禁止されました。

4c末には西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれ、2人の皇帝が統治するようになります。それ以前にもローマ帝国の分割統治は行われていて、最初は別の国と言う意識はありませんでしたが、徐々に別々の道に歩むことになり、言語や文化の違いも影響して、全く違った国となっていきます(イスラムの勢力拡大も影響)

それに合わせて、キリスト教も西ローマ帝国がカトリック、東ローマ帝国は正教会に分かれます。

ローマの街は、ローマ帝国の首都として栄えていて、ローマ司教は五大総大司教座の一つでしたが(他はアンティキオ、エルサレム、コンスタンティノーブル、アレクサンドリア)、ローマ以外の地域では影響力が強かったわけではなく、数世紀かけて少しづつ権威を増していきました(ペテロがローマ司教であったことが大きく関係する)

5cには、教皇という称号が、ローマ司教のみに与えられる特別なものだという認識が西洋中で定着していきます。

5cの数十年をかけて西ローマ帝国は徐々に力を失い最終的に滅亡しますが、カトリックは、西ローマ帝国の滅亡後も中世の西洋における信仰の対象として広まっていきます(フランク王国メロヴィング朝初代国王のクロヴィスがカトリックに改宗したことは大きい。ただし当初は表面的なものだった)

ローマ教皇は影響力がありますが、強い軍事力を持っているわけではないので、強い庇護者が必要です。

西ローマ帝国が滅亡して、東ローマ帝国との繋がりも弱くなったローマ教皇は、ガリアの地で力を持っていたフランク王国との関係を深めていきます(メロヴィング朝初期は、ローマ教皇よりビザンティン帝国の影響力の方が強かったが)

フランク王国がメロヴィング朝からカロリング朝に移り、王であるピピン3世は(ローマ教皇の承認の下、王位に着いた)、イタリアの大部分を領土としていたランゴバルド王国を攻め、ラヴェンナの地域を征服します。ピピン3世はラヴェンナをローマ教皇に献じ(ピピンの寄進)、それが教皇領の始まりです。

ピピン3世の子供であるカール大帝(シャルル1世)は800年にローマ教皇、レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されます(当初は東ローマ帝国には認められていない)

カール大帝(シャルル1世)の時代にフランク王国の支配領域は最大となりますが、実際は様々な民族による緩やかな連合国家で、皇帝の権威とカトリック教会との繋がりが王国を支えていたと言えます。

カール大帝の死後、フランク王国は分裂し、統合や再分割などもあり、現在のフランスやドイツなど分かれていきます。もともと違う文化、民族で、フランク王国の領土拡大で同じ国となっただけでしたので、違った歩みを見せるのは当然の結果とも言えます。

910年にブルグント王国に設立されたクリュニー修道会は(現在のフランス、ブルゴーニュ地方マコネ のクリュニー)、中世における最大の修道会で、世俗権からの教会の自由を主張していました。クリュニー改革と呼ばれる修道会改革運動が起こります。

クリュニー修道会は、教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院で、西欧修道士の父と呼ばれるベネディクトゥス(ベネディクト)の教えに厳格に従い、西洋中に大きな影響を与えました。

当初は修道会改革を進めていたクリュニー修道会ですが、貴族などからの土地寄進などから巨大な富を持つようになり、華美で壮麗な姿に変わっていきます。その結果、1098年にブルゴーニュ地方のサン・ニコラ・レ・シトー(ワイン産地、ニュイ・サン・ジョルジュの東側)からシトー修道会が誕生し、戒律の中でも労働と学習を重んじて、華美なクリュニー修道会と対立していきます。

歴史的な重要度で言うとクリュニーの影響の方が大きいですが、ワインの発展で考えるとどちらも重要です。カペー家が支配していたブルゴーニュ公領は14cにヴァロワ家へと移りますが、ヴァロワ家はブルゴーニュを発展させブルゴーニュ公国と呼ばれるほど大きな領土を持つようになりますが、公国の庇護を受けた修道院の努力によってブルゴーニュのワイン造りは大きく発展します。

中世ヨーロッパは、皇帝と教皇はの2つの権威が相補的な役割を果たしつつ発展していましたが、クリュニーの改革は、シモニア(聖職売買)を根絶する動きと連動し、教皇グレゴリウス7世のグレゴリウス改革(叙任権の世俗権力からの奪還など)へと繋がっていきます。

皇帝と教皇は対立するようになり(10c~11cくらいの頃の教皇はローマを支配する貴族や、オットー1世が皇帝に戴冠してからは割とその時代の皇帝の言いなりだった)、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とグレゴリウス7世は、叙任権闘争で争い、有名なカノッサ事件(カノッサの屈辱)などへと発展します(教皇による破門の解除を願い、皇帝自ら赦しを願った事件)

1095年にはビザンティン帝国からの援助要請を受けて、ローマ教皇は西洋中に十字軍を呼びかけ、イスラムからエルサレムを奪還することに成功します。これによりローマ教皇の権威はさらに高まります。十字軍はその後200年近くに渡って何度も呼びかけられ、十字軍国家なども生まれますが、最終的にはエルサレムもイスラムに取り返され、十字軍国家も消滅します。

十字軍では聖地エルサレムに到達することが最大の贖罪で、大軍が集まった理由の1つでもあります(当時は現代人の感覚からするとかなり信仰深い人が多かったのは事実ですが)

免罪符(贖宥状)も元々十字軍に参加した者に罪の許しを与える為に発行されたものが始まりですが、十字軍に参加できない場合でも寄進を行うことで手にすることが出来ました。免罪符は16cになるとドイツで特に盛んに販売されるようになり、マルティン・ルターを中心とした宗教改革へと繋がり、プロテスタントがカトリックから分離することになり、西洋中を巻き込んだ戦争にも発展していきます。

十字軍は元々、聖地エルサレムを異教徒であるイスラムから取り戻す為に始まったものですが、回を重ねるごとに形骸化し(異教徒ではないキリスト教国を攻撃したり、ビザンティン帝国に攻めたりもしている)、十字軍という言葉は同じキリスト教の異端討伐にも使用される言葉となります。

異端討伐で有名なものに、南仏などに広まっていたカタリ派を討伐したアルビジョワ十字軍がありますが、ベジエの街を落とした時、教皇特使アーノルトが、「皆殺しにしろ。誰かは神が知りたもう」と述べ、カトリック、異端の区別なく虐殺した話はとても有名です。これは当時でもやりすぎな感じはあったようですが、教皇特使が、異端でない者は天国に行けるからむしろ幸せだと考えていたことがわかります。

十字軍のある程度の成功により(成功なのかは微妙ですが)、教皇権はより強固になりました。

教皇と神聖ローマ皇帝との争いは続き、争いの結果、皇帝を世襲していたホーヘンシュタウフェン家を断絶させることに成功し、神聖ローマ帝国は大空位時代を迎えます。またシチリア王国をフランス王族であるシャルル・ダンジューに与えました。

フランスと教皇の関係性は良好でしたが、神聖ローマ帝国の力が弱くなったことで、フランス王の権威が増し、教皇とも対立するようになり、フランス王臣下のギヨーム・ド・ノガレがローマの貴族コロンナ家と協力して教皇を捕らえたアナーニ事件が起こります。

アナーニ事件の後、教皇ボニファティウス8世は死去し、次に選ばれた教皇も短期間で急死し、その後は新たな教皇を1年近く選ぶことができず、最終的にアキテーヌ出身のクレメンス5世(アキテーヌはイングランド王領)が選出されました(フランス王フィリップ4世を頼りリヨンで戴冠。力の弱い教皇がフランスに助けを求めた側面もある)

アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)は、イメージ的にはローマ教皇をローマからアヴィニョンにフランス王が無理矢理連れていた印象すらありますが、実際は違い、教皇権がフランスの影響下に入ったことは正しいですが、教皇自身は囚われていたわけではなく、自らアヴィヨンに留まっていて、豊かな暮らしをしていました。

クレメンス5世は、貴族間の抗争が起き安定してないローマに行くことを自ら拒否しました。アヴィニョンはシチリア王のアンジュー家領だったので妥協案としては適切でした(のちに教皇領となる)

ですがアヴィニョンに移った教皇は、フランス王の強い影響下にあり、公正な仲裁者としての権威を失っていったのは間違いありません。

以降、アヴィニョン教皇はフランス出身者が続きますが、百年戦争が起き、そして長期化したことでフランス王の権力が弱まったことなどもあり、グレゴリウス11世がローマに戻りました。

グレゴリウス11世はローマに帰ってまもなく死去し、次に選出されたナポリ王国出身のウルバヌス6世は独裁的になり、フランスの枢機卿の支持を失い、フランスの枢機卿たちは独自にクレメンス7世を選出しアヴィニョンに置きました。これにより西方教会大分裂となり、一層、教皇の権威は失墜していくこととなります。

クレメンス7世が亡くなった後は、フランス側はアラゴン出身のベネディクトゥス13世を選出し、分裂した教会を立て直そうとしましたが上手くいかず、ビサの会議で両教皇の退位と、新教皇アレクサンデル5世の選出が行われたが、両教皇は退位せず、教皇は3人いる状態となります。

事態を収集するため神聖ローマ皇帝も介入し、三人の教皇は廃位され新たにマルティヌス5世が選出されます(ベネディクトゥス13世はアラゴンでは教皇のままだった)

統一された後も教皇の権威は回復せず、ルネサンスを経てさらに堕落の道を進み、後の宗教改革へと繋がっていきます。