コート・デュ・ローヌ地方の歴史
コート・デュ・ローヌ=ローヌ渓谷は、紀元前後、ローマ帝国の属領ガリア・ナルボネンシスの一部で、ぶどう栽培地の北限でした。コート・デュ・ローヌ北部にぶどう畑が広がったのは1c以降です。
ローマ帝国の時代に栄え、ローマ時代の遺跡も多く残ります。交通の要所としてヴィエンヌやオランジュ、ニームなどが栄えました。
ローヌ渓谷の歴史の中で最も重要な出来事は、教皇のバビロン捕囚とも言われる14cのローマ法王庁のアヴィニョン移転です。
フランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立があり、1303年、フランスはアナーニの別荘にいた教皇を襲撃します(アナーニ事件)
教皇は捕らえられ、その後病死します。
フィリップ4世は、アキテーヌ出身のボルドー大司教であるベルトラン・ド・ゴを教皇に就けることに成功します。
ベルトラン・ド・ゴは、クレメンス5世として即位し、フィリップ4世の要請を受けて、1309年に教皇庁をアヴィニョンに移しました。
その後、1377年まで7代に渡って教皇庁はアヴィニョンにありました。この時選ばれた教皇は全てフランス人です(ただこの当時のアヴィニョンはフランス王家の領土ではなく、プロヴァンス伯領)
それまでは田舎だったアヴィニョンに教皇庁が来たことで、この地域は大きく発展することになります(急激な変化に対応できず治安も悪く汚い街だったようですが)
クレメンス5世はボルドーのグラーヴにぶどう畑を所有していて、それが今日のシャトー・パプ・クレマンです(パプは教皇の意味で、クレマンはクレメンスのこと)
また、2代目のアヴィニョン教皇であるヨハネス22世は、アヴィニョンの北に位置するオランジュ近郊にぶどう畑を造ります。それが今日のシャトーヌフ・デュ・パプです(教皇の新しい城の意味)
1377年に教皇グレゴリウス11世はローマに戻りますが、フランス側も教皇を選出、教皇が二人になる教会大分裂が起こります(その後教皇が3人になる事態になります)