シャンパーニュ〜Champagne〜

シャンパーニュ地方の歴史

シャンパーニュ地方の歴史

フランスでも北側に位置するシャンパーニュには、なかなかぶどう栽培に適しておらず、6000年前のぶどうの葉の化石は見つかっていますが、本格的のワイン造りが始まったのは4c頃にローマ人が伝えたとされています(シャンパーニュという名前もローマの言葉で平原を意味するカンパーニュからきている)

中世には他の産地同様、修道士によって畑は広げられます。当時はまだ発泡性ワインではなくスティルワインでした。

シャンパーニュ地方は、1022年〜1314年までシャンパーニュ伯の領地でした。フランス王国(カペー朝)の一部ではありますが、他の地域同様、独立性を保っていました。

ランスのノートルダム大聖堂は、シャンパーニュ伯領の時代、13cに建造されました。フランスの基礎を作ったとされるクロヴィスが、496年にランスの司教、サン・レミからカトリックの洗礼を受けたという逸話があり、歴代のフランス王の戴冠式などもランスのノートルダム大聖堂で行うのが慣習となりました(816年のルイ1世から1825年のシャルル10世まで。ノートルダム大聖堂は13cですので、それまでは別の教会で戴冠式は行われていました)

シャンパーニュ伯領が大きく発展したのはアンリ1世の時代です(1127〜1181年)

父親のティボー4世はブロワ伯で、叔父であったシャンパーニュ伯ユーグが戦死したことでシャンパーニュ伯も継いでいました。

ティボー4世が亡くなった時にブロワなどの豊かな領地は弟に残して自らはシャンパーニュ伯となります。

当時はまだ力のない地域でしたが、アンリ1世が治めている時期に、シャンパーニュ伯領はフランス諸侯の中でも高い地位を持つまでになります。

アンリ1世は第2回十字軍にも参加しています(息子のアンリ2世も第3回十字軍に参加し、エルサレム女王イザベル1世と結婚しエルサレム王になります。十字軍の話も別記事予定)

シャンパーニュ伯の保護下で発展したシャンパーニュの大市はヨーロッパの商人たちの大市場となり、貿易の中心地として機能しました。このシャンパーニュの大市によって、シャンパーニュ伯領は豊かになっていきます。この時に繊維業も発展し、財を成した者たちが後のシャンパーニュメゾンとなっていきます。

当時は淡い赤ワインでしたが、大市の盛り上がりに合わせてシャンパーニュ地方のワインの消費も伸びていきます。

フランス王家とは争いもありましたが姻戚関係を深めていきます。シャンパーニュ伯でナバラ王でもあったジャンヌ(フアナ1世)が、フランス王フィリップ4世の王妃になり、息子のルイがフランス王ルイ10世として即位したことで、1314年、シャンパーニュ伯領は王領に取り込まれます。

当時は赤ワインとして人気だったシャンパーニュですが、シャンパーニュは寒い地域なので、ぶどうの発酵が終了する前に気温が下がり、春に再び発酵して微発泡したワインが意図せず出来てしまうことが頻繁に起こっていました。

当初は失敗であった発泡ワインですが、意図的に泡を保つことが出来るようになると、ヨーロッパ各国の宮廷で人気になっていきます(樽でシャンパーニュ地方のワインを購入していたイギリス人が瓶に詰めて栓をしたのが始まりと言われている)

シャンパーニュ地方の白亜紀の石灰岩は、地下に冷たく湿度も保たれたカーヴを作ることが出来、ワインを保管、熟成させるのに適していたこともシャンパーニュの発展に大きく貢献しました(ローマ人の石灰岩の採掘した後の洞窟がカーヴとして使われている)

シャンパーニュという名称が使われ出したのは1600年頃のことで、それまではランスの周辺のワインはヴァン・ド・モンターニュ(山のワイン)、マルヌ川流域のワインは、ヴァン・ド・リヴィエール(川のワイン)と呼ばれていました。

この頃はヴァン・ド・リヴィエールの方が質が高いとされていて、アイ村が最も優れた産地と言われていました(それは現在も変わっていないかもしれませんね)

現在のシャンパーニュの製法の基礎を造ったのは有名なドン・ペリニヨンです。17c末、オーヴィレール村の修道士だったドン・ペリニヨンは、畑の区画ごとのぶどうの特徴を理解して、アッサンブラージュすることで、ヴィンテージの良し悪しに関わらず品質の高いワインを生み出すことに成功しました。

1728年に、ルイ15cがガラス瓶に入ったワインの流通を認めたことなどもあり、シャンパーニュは発泡性ワインとして認識され広まっていくことになります。

ガラス瓶で流通するようになったシャンパーニュですが、最初の頃は瓶が割れることもよくありました。ガラス瓶の改良や透明な果汁の搾汁など長い年月をかけた様々な試行錯誤の結果が今のシャンパーニュです

そして、当時は甘いシャンパーニュでした。

この頃、18cに多くのシャンパーニュメゾンが誕生しています。

シャンパーニュを初めて一般市場に流通させたのはリュイナールで、1729年のことです。

1816年にはマダム・クリコが、ピュピトルを使ったルミュアージュというオリを取り除く方法を考案したことで、クリアなシャンパーニュが生まれます。

コルクを留める留め金のミュズレを開発したのはジャクソンで1844年のことです。

同時期の19c中頃に甘さを抑えた辛口のシャンパーニュも誕生します。

1908年にはシャンパーニュ地方の境界線が引かれました。その時はシャンパーニュ地方にオーブ県は含まれませんでしたが、1927年にオーブ県を含めた形で境界線が引き直されました。