フランス(ヨーロッパ)の歴史

ブルゴーニュ地方の歴史

ブルゴーニュ アロースコルトン

ブルゴーニュ地方の歴史

ブルゴーニュという名称は、ブルゴーニュの地にかつて存在したブルグント王国からきています。

ブルグント王国が滅んだ後も、この地域はブルゴーニュと呼ばれ続けました(ボルトガル王国やカスティーリャ王国のブルゴーニュ朝もブルグント王国とは関係ありませんが、地方名としてのブルゴーニュが元となっています(ブルゴーニュ伯の家系から誕生したり、ブルゴーニュ公の一族が関わっていたりする)

5c初頭にブルグント族はローマ帝国が支配するガリアに入り、ブルグント王国を成立させました。西ローマ帝国とは、フォエデラティ(ローマ帝国の同盟者)の地位を与えられますが、西ローマ帝国に従わず、争うこととなり、一度滅亡しますが、その後再びフォエデラティの地位を与え西ローマ帝国と深き繋がりを持った状態が続きます。

ですが、西ローマ帝国の力は弱まり、ガリアはフランク王国に支配されるようになり、ブルグント王国も534年にフランク王国(メロヴィング朝)に滅ぼされました。

その後、ブルグンディア分王国となり、フランク王などに支配され、分割されたり統一されたりを繰り返します。

フランク王国が751年にカロリング朝を開きますが、フランク王国の分裂に合わせて、ブルグントの地域は北西部が西フランク王国領、北部はロタリンギア王国領、南部はプロヴァンス王国領となります。

プロヴァンス王国はキスユラブルグント王国(下ブルグント)とも呼ばれていました。

ロタリンギア王国領の一部になったユーラブルグント王国(上ブルグント)は、その後、933年に再びキユスラブルグントと併合します。

その時、アルルへ都を移したブルグント王国は、アルル王国とも呼ばれます。アルル王国は、以前あったブルグント族の王国と区別するため、第二のブルグント王国とも呼ばれます。

アルル王国は1032年にアルル王家が断絶した後に、神聖ローマ帝国の一部となりますが、1378年にフランスに割譲されます(それ以前に実質フランスの一部と化しているか独立した地域となっているかどちらかだった)

アルル王国は、現在のブルゴーニュの地域とは直接は関係ない部分です。

関係しているのは、西フランク王国領になっていたブルグント北西部です。ブルグント北西部はブルゴーニュ公領と呼ばれ、ブルゴーニュ公が治めていました。ここが現在のブルゴーニュ地域圏とほぼ同じ地域です。

ブルゴーニュ公国は、カペー家が途絶えてヴァロワ家が統治する14c頃から勢力を拡大し、アルル王国の一部ですがフランスに割譲されなかったブルグント伯領や、アルザス、ロレーヌ、ベルギーやオランダ、ルクセンブルグにまで支配下に置き、ブルゴーニュ公国と呼ばれるようになります。

このブルゴーニュ公国は第三のブルグント王国とも呼ばれます。

ブルゴーニュ公国はフランスの一部ではありますが、独立した国とみなされていて、百年戦争時にはイングランド側の味方をしたりしています(この時のイングランドはプランタジネット朝なので、どちらもフランスとも言えますが)

15c、シャルル突進公は、更なる勢力の拡大を求めて、フランスとブルゴーニュ戦争を起こしますが、ナンシーの戦いで戦死し、ネーデルラント(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)とブルゴーニュ伯領(フランシュ・コンテ)以外の地域はフランス領となり、ネーデルラントとブルゴーニュ伯領は最終的に神聖ローマ帝国領となります。

ヴァロワ家の時代のブルゴーニュ公爵は、フィリップ豪胆公、ジャン無怖公、フィリップ善良公、シャルル突進公といった歴史的にも重要な方達が揃っていますが、中でもワインに関することで言えば、フィリップ豪胆公が重要な人物と言えます。

フィリップ豪胆公がフランドル地方の王族マルグリット・ド・ダンピエールと結婚したことで、ブルゴーニュ公国は巨大な領土も持つに至るわけですが、華やかなブルゴーニュ文化はこの時代に生まれました。
 
さらにフィリップ豪胆公は、ガメイの栽培を禁止して、ピノノワールのみを栽培すると言う今のブルゴーニュに繋がる決定的で大きな政令を出しました。

この出来事を契機にして、ブルゴーニュはピノノワールという単一品種によるワイン産地になっていきます(必ずしもすぐにガメイが無くなったわけではなく、一時期は増えたりもしていますが)

繁栄を築いたブルゴーニュ公国ですが、シャルル突進公が娘のマリーと、ハプスブルク家のマクシミリアンを婚約させた後に戦死してしまったことで、ブルゴーニュ公領以外は、ハプスブルク家が支配する地域となります(ブルゴーニュ公領はフランス領となった。1529年の貴婦人の和約の後にはブルゴーニュ伯領もフランス領となった)

また、フランス革命時には、修道院が所有していた畑は没収され、細分化され分配されました。これがブルゴーニュの畑が小さなクリュごとに分かれるようになったきっかけです。

フランスの各ワイン産地はキリスト教の修道院との深い繋がりの中で発展していますが、特にブルゴーニュにとって修道院はかなり大きな存在です。

クリュニー会とシトー会という2つの宗派によって、現在のブルゴーニュの銘醸畑の多くは開墾されています。

クリュニー会は、909年または910年に、アキテーヌ公ギョーム1世(マコン伯でもあった)がブルゴーニュの南部マコンの北西20kmのところにあるクリュニーの地に創設したベネディクト派の修道会です。

もともとは世俗化したキリスト教会の改革を謳っていました。しかし、大きくなりすぎたクリュニー会は、大きな権力を手にして政治にも介入し始めるようになります。

クリュニー会はどんどん華美になり、もともとの理念から大きく外れていくこととなります。

そのため再回帰を求めて新たに生まれたベネディクト派の修道会が、シトー会です。シトー会は禁欲的で、模範を守ることを第一とした宗派です。

ニュイ・サン・ジョルジュの東の荒地に、ロベール・ド・モレーム(後の聖ロベルト)が創立した修道会です。シトー派は、白い修道服が特徴でもあり、白い修道士とも呼ばれます。

明るく華美なクリュニー派と禁欲的なシトー派、この2つの修道会がブルゴーニュにとって(またキリスト教にとっても)大きな存在となっていきます。

そしてフランス革命を迎え、修道士の畑は売却され、ナポレオン民法典によりどんどん細分化されて今の姿になりました(均等分割相続制度の影響)細分化されてしまったがために失われてしまった部分も大きいですが(例えば単一所有だった頃のクロ・ド・ヴージョは二度と飲めない)、こうして今のブルゴーニュワインが形作られていきました。

修道士の畑ではなくなった現在でも宗教的な味わいをしっかりと感じられるのがブルゴーニュです。