フランス(ヨーロッパ)の歴史

ボルドー地方の歴史

サンテミリオンボルドー風景

ボルドー地方の歴史

ボルドーを含むアキテーヌ地方は、後期石器時代の遺跡が数多く残る地域です。アキテーヌは、もともと深く広大な森だった場所です(ヨーロッパ自体がそうとも言えますが)

ケルト人がヨーロッパ各地に広がっていきますが、ボルドーにも紀元前1000年ころからケルト人が住んでいました。

ガリア(フランス)の他の地域同様、ボルドーはローマ帝国に支配されるようになります。ローマ帝国はこの地をブルディガラと呼びました。

当時のブルディガラ=ボルドーは湿地帯でした。

寒いところでは育たないぶどうは、品種改良を重ねて、長い時間をかけながら北の産地にも少しづつ広がっていきます。ビチュリカ(ビトゥルカ)と呼ばれる品種が1〜2世紀頃にはボルドーの地で栽培されていました。

ビチュリカは未だ謎が多い品種ですが、現在ボルドーの主要品種であるカベルネ・ソーヴィニヨンとの関わりがあると言われています(カベルネ・ソーヴィニヨンは17c頃にカベルネ・フランとソーヴィニヨン・ブランの交配だと分かっていますが、関わりはあるのかもしれません)

ボルドーも同様ですが湿地帯でしたので、その意味でもボルドーでのぶどう栽培は大変な労力のかかるものでしたが、少しづつぶどう畑は広がっていきました。

ローマ帝国が衰退していき、フランク王国がガリアの地で勢力を増していきます。アキテーヌ地方は6c初頭まで西ゴート王国の領土でしたが、クロヴィス1世に敗れ、フランク王国の領土となりました。

8cにはアキテーヌ公がフランク王国から独立した形で、この地を治めるようになります。その後、分裂した西フランク王国領となりますが、独立性は保たれていました。

アキテーヌ公がこの地を支配していた時代にブルディガラはボルドーと呼ばれるようになっていきます。

ボルドーの名前は、au bord de l’eau(オ・ボール・ド・ロー)という言葉から転じていて、水のほとりの意味です(名前の通りボルドーは水感がしっかりと感じられるワインです)

西フランク王国はカロリング朝からカペー朝に変わり、フランス王国が誕生します。この頃のフランスは権力基盤が弱く、直轄領はイル・ド・フランスの小さな地域のみでしたので、アキテーヌ公の領土の方がずっと大きなものでした。

1137年に領主だったギョーム10世の後を継いだ娘のアリエノールは、フランク王国の王ルイ7世と結婚し、フランス王国は一時、領地を拡大することに成功します。

ですが、ルイ7世とアリエノールは長く続かず、1152年に離婚することとなります(当時は離婚するのは大変な時代でしたが策略を練って教会に認めさせた)

離婚したアリエノールは2ヶ月後にはアンジュ伯アンリと再婚します。アンジュ公国とアキテーヌ公国がアンリの所有となりましたが、さらに、アンリはイングランドの王位継承権も持っていたため、1154年、イングランド王ヘンリー2世として即位することとなります。広大な領土を持つアンジュ帝国の誕生です。

これはボルドーにとって大変大きな出来事です。

イングランドとの繋がりが強くなったボルドーは、イングランドへのワインの輸出を拡大させていきます(新酒を一番最初に販売できる特権などを得ていた。当時のワインは長持ちしなかったのでこれは大変大きなアドバンテージ)

当時のワインは今のボルドーのような濃い色調ではなく、淡い色合いの赤ワインで、イングランドではクラレットと呼ばれて人気を博しました。

百年戦争でボルドーがフランスに組み込まれる300年ほどの間、ボルドーはイングランドとの深い関係性の中で発展していきます。

フランス領になってからもイングランドとの取引は認められていましたが、その量は激減することとなります。

フランス領になってからのボルドーでも新しい畑の開墾が進められましたが、湿地帯のボルドーでは相変わらず畑を増やすのは大変労力のいる作業でした。

それが改善されたのは、17cにオランダ商人たちが優れた干拓技術を導入し、メドックの排水に成功した後のことです。

これまで難しかった場所にも新しい畑が開墾され、現在の銘醸シャトーが次々と生まれていきます。

メドックが注目される以前はグラーヴが主要なワイン産地でした。そして16cにシャトー・オーブリオンの当時の所有者であったアルノー・ド・ポンタックと息子のフランソワ・オーギュスト・ド・ポンタックが、現在のボルドーワインの原型とも言える深く濃い色調のワインを生み出します。

補酒(ウイヤージュ)や澱引き(スーティラージュ)などの技術を駆使して、熟成にも耐えうるワインを造り出しました。

ここもボルドーの大きな転換点です。

17cから18cのフランス革命まではボルドーの絶頂期です。植民地からの輸入品の中継地として大きく発展することとなります。

フランス革命時にはブルゴーニュでも見られるように、畑は没収され解体されそうになります。ボルドーの商人たちが協力して動き、一度没収された畑を買い戻したりして解体を防ぎましたが、大きな資本力のあるボルドー以外の資本家が所有する割合も増えていきます。

1855年に初めて開催されたパリ万国博覧会ですが、それに先駆け、ナポレオン三世はボルドー市に、ボルドーのワインの格付けを命じました。そこで誕生したのが現在までほぼ変わらず存在するメドックの格付けです。